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「助っ人」たちの半世紀(上)

 今季のJリーグには、ブラジルリーグMVP&得点王として名古屋にやってきたジョーを皮切りに、スペイン代表のイニエスタ(神戸)やフェルナンド・トーレス(鳥栖)など、レベルの高い外国人選手が加わった。日本サッカーに「助っ人外国人」が加わって約半世紀。その歴史をたどってみたい。

ブラジル日系二世「研修生」ネルソン吉村の衝撃

 1967年夏、兵庫県尼崎市のヤンマーディーゼルグラウンドで見た光景を今でも忘れることはできない。
 ブラジルからヤンマーに入団した日系二世、ネルソン吉村こと吉村大志郎(2003年、56歳で死去)が、初練習に手ぶらでやってきた。その姿を見たチームの年長者GK安達貞至(後にヴィッセル神戸社長)が「お前、サッカーシューズないんか。ないのなら賀川さんに買ってもらえ!」と声をかけると、吉村はおもむろに尻のポケットから二つに折りたたんでいたサッカーシューズを取り出した。
 当時、日本のサッカー選手は底の硬いシューズを履き、その硬さを利用して強いボールを蹴っている感覚だった。しかし、ブラジルでは足にシューズを合わせることが大事で、まるで履いていないかのような薄い素材のシューズで、ボールを器用に扱うことが当たり前だった。今となっては笑い話だが、半世紀前の日本サッカーにとって、吉村の尻ポケットから出てきた二つ折りのシューズは、まさにカルチャーショックの象徴であった。 ブラジルの日系人サッカーで名をはせていた19歳の吉村を、ヤンマーはチーム強化の一環として、現地法人に入社をさせて研修生という形をとって日本に呼び寄せた。選手のプロ化が認められるまで、まだ20年近い歳月が必要だった当時のアマチュア規定では、あくまで会社で働くということが建前だった。
 ブラジルの中で「素人に毛の生えたような」存在だった吉村だったが、ボール扱いがうまく、若かったこともあり動けて足も速かった。さらに性格が素直で、誰からも愛された。吉村と一緒の飛行機でブラジルから来日したパルメイラスと日本代表として親善試合を行い、そのまま長期の欧州遠征に出かけた「同期入団」釜本邦茂がチームに帰ってくると、吉村とのコンビがヤンマーの目玉となった。さらに黒人選手カルロス・エステベスや日系人のジョージ小林も補強し、日本サッカーリーグで当時関西唯一のチームだったヤンマーは、あっという間に日本のトップに上り詰めた。

「元プロ選手」セルジオ越後の功績

 吉村の活躍に刺激されたこともあり、1972年には藤和不動産(その後フジタ、湘南ベルマーレの前身)がコリンチャンスでプレーした経験を持つ「元プロ選手」の日系二世・セルジオ越後を招いた。セルジオは吉村のような高いボール扱いの能力に加え、中長距離のパスがうまく、逆サイドへ正確なパスを通していた。また、ブラジル人選手における共通点といえる、ボールの奪い合いでの強さ、抜かれない技術は、日本のサッカーファンに大きな影響を与えた。セルジオの日本リーグデビュー戦には2万人近い観客が集まった。
 セルジオ越後は来日して2年後には現役を退いたが、その後はコカ・コーラがスポンサーとなってサッカー教室で全国をめぐり、のべ50万人の子どもたちを指導した。始めた当初は日本語がおぼつかなかったが、説明より先に、自らの確かな技術を一生懸命に見せることで、子どもたちの心をつかんだ。サッカーの楽しさを伝え、後にJリーガーや日本代表選手になる選手たちを数多く輩出し、指導者にも影響を与えた彼の功績は計りしれない。藤和不動産にはセルジオ越後の誘いでFWカルバリオが1974年に入団、日本で12年間プレーしリーグで2度の得点王にも輝いている。
 セルジオ越後が来日した1972年には、事実上のプロクラブとして3年前に設立された読売クラブ(東京ヴェルディの前身)に、沖縄にルーツを持つサンパウロ生まれのジョージ与那城(1992〜93年、グランパスヘッドコーチ)が加入した。与那城は85年に帰化し、日本代表としてもプレーした。そして、1977年にはカリオカ(リオッ子)の愛称で知られるラモス・ソブリニョが来日、後に帰化してラモス瑠偉となる。読売クラブは80年代の日本リーグで黄金時代を築いた。アマチュアリーグからプロ化への転換点を迎える日本サッカー界において、与那城らが持ち込んだサッカースタイルは強烈な個性を見せていた。

プロ化の波、世界各国から助っ人が集う

 ドイツでプレーしていた奥寺康彦が日本に戻り、木村和司とともに国内初のプロ選手としてリーグでプレーしたのが1986年。その翌年には、日産自動車(横浜F・マリノス)が元ブラジル代表のDFオスカーを招き、そのオスカーに誘われ、後に帰化してグランパスや日本代表でもプレーしたロペス(呂比須)・ワグナーが来日した。同時期にはマツダ(サンフレッチェの前身)がヨーロッパから指導者、選手を呼ぶようになった。その先駆者が1986年にオランダから来日し、グランパスでも活躍したGKディド・ハーフナーだ。さらに松下電器(ガンバの前身)がタイ代表のビタヤを招いた。グランパスの前身でもあるトヨタ自動車も1990年、パルメイラスから元ブラジル代表MFジョルジーニョを獲得している。
 日系二世・ネルソン吉村が来日してからの25年間は、実業団リーグだった日本サッカーリーグに、ブラジルをはじめとした各国から「助っ人」外国人選手がプレーできる道筋を作る貴重な時間だった。この軌跡は、92年にナビスコカップ、93年にリーグ戦がスタートするJリーグに受け継がれ、驚くような光景が見られるようになった。

(月刊グラン2018年12月号 No.297)

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