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助っ人たちの半世紀(中)

 日系ブラジル人・ネルソン吉村が日本の地を踏んで四半世紀。Jリーグ発足を境に「助っ人」外国人は、まったく新しい時代に入った。Jリーグ草創期を彩った外国人選手を振り返ってみたい。

要職を辞して来日「本物のスター」ジーコ

 1991年。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)発足が発表され、新しいスポーツの波が訪れた時。現役を一度は引退し、ブラジルのスポーツ大臣という要職を務めていたジーコが来日した。しかも、所属したのは日本リーグ2部の住友金属。鹿島アントラーズとしてJリーグ10クラブに名を連ねることが決まっていたとはいえ、ワールドカップ出場3回、雑誌「ワールドサッカー」が選ぶ世界最優秀選手にも2度選出された。まさに本物のスターの来日に誰もが驚いた。
 期待と不安の中で迎えたJリーグ。その草創期にジーコが残した足跡は、数字以上に価値のあるものだ。1993年5月16日の開幕戦、満員のカシマスタジアムでグランパス相手に見せたハットトリック。一気にこの年のファーストステージを制し、後の常勝クラブの礎を作った。さらに「助っ人」の枠を超えて2002年から06年までは日本代表監督としてドイツワールドカップ出場を果たすなど日本サッカー全般に渡る貢献度は計り知れない。今年、テクニカルディレクターとして16年ぶりにアントラーズに復帰。日本との結びつきは今後も続く。
 ジーコについて今でも印象に残っているのは、彼が初めて出場した1978年アルゼンチンワールドカップのグループリーグ・オーストリア戦だ。ブエノスアイレスの南にある港町マルデル・プラタでの試合を現地取材したが、ワールドカップ直前に完成したスタジアムは、コンディションが劣悪な「べたべたのグラウンド」。ジーコが苦労しながら試合を組み立て、ブラジルが1−0で何とか勝利を収めた。後日、この試合のことをジーコに尋ねると、あんな試合を見ていたんだと苦笑しながら「厳しい試合だった」と振り返ってくれた。 ブラジル代表で「黄金のカルテット」の一角を占めた選手としての輝かしい実績はもちろん、彼自身がサッカーそのものを知っていた。さらに日本に来るにあたって指導の仕方、チームの試合への動機づけに関してよく勉強し、本当に一生懸命にサッカーに取り組んでいた。それはジーコが今も愛される理由だ。

移籍金高騰「前夜」草創期を彩る大物たち

 日本で活躍をした選手のトップクラスに挙げたいのはビスマルク。ヴェルディ川崎(当時)を皮切りに、鹿島、ヴィッセル神戸にも所属して10年で283試合。サッカーは技術があれば、これだけいろいろなことができるということを日本のサッカーファンに見せてくれた。また、94年ワールドカップで優勝したブラジルの主将ドゥンガがジュビロ磐田に入団した時は、ブラジル代表のチームメートがドゥンガを追って続々来日を果たしたこともあった。  今、イニエスタ、ポドルスキ(いずれも神戸)、フェルナンド・トーレス(サガン鳥栖)の存在が話題になっているが、当時はジーコのほか、アルゼンチンのエース、ラモン・ディアス(横浜マリノス=当時の名称)、ドイツのドリブラー、リトバルスキー(ジェフ市原など)、そして86年ワールドカップ得点王のリネカー(名古屋グランパス)などが相次いで来日した。ワールドカップの得点王については、90年大会のスキラッチ(ジュビロ磐田)、94年のストイチコフ(柏レイソルなど)と3大会連続で、Jリーグのピッチに立った。ここまで挙げた選手の名前を見るだけでも、Jリーグを盛り上げたいという各クラブの意欲が感じられる。ただ、メディアを含め、当時の日本サッカー界が彼らを受け入れる土台が弱かったことは悔やまれてならない。自分たちの理解を超える高いレベルの選手の存在が、もっと日本サッカーにとって役立つことにつながったのではないかと。今考えても、もったいないと考えている。
 「助っ人」という言葉を超えたビッグネームの来日ラッシュ、その流れにも少しずつ変化が訪れる。Jリーグの開幕の前年92年にスウェーデンで行われた欧州選手権を契機に、ヨーロッパ各国リーグのテレビ放映権料が高騰、潤ったクラブ間による有力選手の移籍金が一気に跳ね上がった。Jリーグ最初の2、3年は、その端境期にあったことが幸いだった。日本代表がアメリカワールドカップ出場を逃し、90年代後半になるとJリーグのバブルのような人気が落ち着き、横浜フリューゲルス消滅などに伴い各クラブが経営の安定化、引き締めに舵を切ったこともあって、有力外国人選手の来日が激減した。 その中で忘れてはならないのが、94年、グランパスに加入したストイコビッチだ。
 旧ユーゴスラビア出身らしくテクニックは来日した中でトップクラス。フランスなどで活躍をしていたが、日本に来てからはボールを絶対に取られないという特徴を生かし、ボールキープからパスを生かしてチームを動かすことができるようになった。90年のイタリアワールドカップで見た時は、ボールを持つと蹴倒してでもボールを奪おうとする選手に苦しめられたが、日本ではそれ以前に余裕たっぷりですり抜けていた。2000年、グランパスが優勝した天皇杯決勝を取材していたが、雨上がりの悪コンディションで相手3人を交わしてゴールを決めたのがとても印象的だった。サッカーを志す子どもや若者が、ストイコビッチを見たおかげでサッカーがこんなに面白いということが分かったのではないだろうか。ストイコビッチがグランパスでプレーしていた時に勝てなかったリーグを、監督になってから制したことは皮肉なことだった。

(月刊グラン2019年1月号 No.298)

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