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1951年アジア大会「6競技で開かれた大会」

 第一回アジア競技大会は昭和26年(1951年)3月4日から11日までの一週間、インドの首都ニューデリーのナショナル・スタジアムで開催された。陸上、水泳、サッカー、バスケット、ウエイトリフティング、自転車の6競技が行なわれ、開催国インドをはじめタイ、ビルマ、インドネシア、アフガニスタン、フィリピン、イラン、セイロンと日本の8ヶ国が参加して行なわれた。日本は水泳がシーズンオフのため不参加だったが、残りの5競技に合計80人の選手を送った。

 この大会は、第二次大戦前まで東と西に分かれて行なわれていた競技会で、極東大会と西アジア競技会を一つにまとめ、新たにアジア競技連盟を結成し、四年に一度オリンピックの中間年に開くことを1950年2月に申し合わせた。はじめは同年秋の開催予定だったが準備の都合で遅れたもの。

 日本の参加については、日本によって戦争の大きな被害をうけた国から異議もあったが、最終的には参加を招請することとなった。すでに日本の競技団体が、サッカーのFIFA(国際サッカー連盟)への復帰をはじめ国際競技連盟に加盟を認められていることもあり、また競技大会の運営や審判技術の問題などで、第二次大戦前に国際水準にあった日本に期待する声も強かったという。

 戦後5年を経て、日本国内のスポーツは、すでに国体がはじまり、体育協会やJOC(日本オリンピック委員会)の組織も動いていたし、競技団体も組織的な試合を行なっていたのだが、敗戦後はじめての外国への選手団派遣で、そのバックアップや事務所の方々はたいへんだったらしい。

 80人の選手を送り出す経費は、2500万円。国からの補助が1000万円、寄付金が1500万円で、寄付金のなかには一般の募金と選手を出す競技団体の負担金とがあった。

 現在のように日の丸をつけたJAL機やANA機が海外路線を飛び回っているのではなく、選手団のために海外の民間機をチャーターした。44人乗りのダグラスC4型で、2便に分けて出発した。チャーター機は、帰国便のさいに故障が起こり、選手たちは途中バンコクで、代わりの便が出来るまで待つことになったが…。

 もちろん、ジェット機でなく、羽田から、沖縄、バンコクで給油をしてニューデリーへ着くのだった。

 サッカーの16人はFWの松永(早大)とFBの堀口(早大)のほかはすべて社会人。

 二宮、津田、有馬の33歳から、堀口、松永の23歳まで、幻の東京オリンピック(1940年)を目指した戦前派と大学生の時に軍隊にはいった戦中派が主力。その一人、HB(現在のMF)の松永信夫は憲兵(けんぺい)将校だったという理由で、海外渡航の許可がおりなかった。FWの松永碩の兄であり、1936年ベルリン五輪代表の松永行選手の次弟でもあるこの強力なMFを失なうことはチームの痛手でもあった。自転車の選手だった北沢清は教職追放のため、陸上の鈴木義博が松永と同じ理由で渡航不可能となっている。


(ジェイレブ  MAR.1993)

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