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新元号・令和を迎えて@

 5月1日から新しい元号「令和」が始まった。1924(大正13年)に生まれた私にとっては、四つ目の元号となる。西暦として一つにつながっている海外と違い、時代ごとに歴史をらためて見直すことは日本独特の考え方だ。令和の時代を展望するため、いま一度、日本サッカー史を駆け足で振り返ってみたい。

ドイツの教えを受けた大正時代

 大正時代はわずか15年と短い期間だったが、欧州を中心とした第一次世界大戦による戦禍拡大の中、中国の青島(チンタオ)を東アジアの拠点とし、その後広島に捕虜として収容されたドイツ人を通じて、直接ヨーロッパのサッカーを取り入れることができた。1919(大正8)年には広島県・似島にあった俘虜収容所に収容されていたドイツ人のチームと地元の学校チームと試合をした記録もあり、広島の高等師範の指導者らが教えを請うた。広島高等師範と試合のすることの多かった神戸のチームもその技術を受け継ぐ格好となった。当時の日本が世界の一等国を目指し、捕虜の待遇に神経を使い、大切に扱っていたという時代背景も日本のサッカーには好都合であった。
 昭和に入り、日本サッカーは国際試合で成果を残すようになった。1930(昭和5)年、東京で行われた第9回極東選手権では、それまでの大会で覇権を分け合ってきた中国と3-3で引き分け、フィリピンにも7-2で大勝し、初めて中国と優勝を分け合った。ここに至るまでサッカーの技術向上に先頭に立っていたのが、東は竹腰重丸擁する東大、西は関西学院。極東選手権当時の日本代表はGKとFBは関学、その他は東大で占められていた。
 極東選手権を初めて制し意気上がる日本サッカーだったが、1932年に開催されたロサンゼルス・オリンピックに日本代表の姿はなかった。サッカー競技そのものがなかったからだ。当時ヨーロッパではすでにプロリーグが行われており、FIFA(国際サッカー連盟)は参加選手に休業補償をするという提案をした。これがアマチュアリズムを重視するIOC(国際オリンピック委員会)の決定に反する行為とされた。ヨーロッパで開催されるオリンピックはサッカーの入場料収入がなければ成り立たないと言われていたが、当時サッカーが盛んでなかった米国はサッカーに重きをおいておらず、プロ選手の多かったヨーロッパの選手たちが船による長旅をしてまで、長期間国を離れることも現実的ではなかった。
 国際舞台での活躍に思いをはせていた日本代表の選手たちは我慢を重ね、次の舞台に向けて練習を重ねた。その思いが4年後、1936年のベルリンオリンピックで花開く。この時には従来の有力校に代わり、早稲田大学の選手が主力メンバーに名を連ねた。「ベルリンの奇跡」として語り継がれるスウェーデン戦での逆転勝利など日本サッカーの存在を示した戦いは、当時11歳だった私も新聞などで読み、大いに喜んだ。このベルリンの戦いは、1940年に開催の決まった東京オリンピックを見据えた戦いでもあった。しかし、開催の決まった東京オリンピックは、戦争の影響で返上を余儀なくされた。本当に残念な出来事だった。

サッカー復活を印象付けた「天覧試合」

 戦後、いち早くスポーツの息吹を取り戻したのはサッカーだった。終戦の年、1945年10月に復員した私も、その月末に戦災を免れた兵庫・西宮球技場でボールを蹴り始めていた。1946年2月11には東西のOB、学生の対抗試合が戦災を免れた兵庫・西宮球技場で開催され、1947年4月には、GHQに接収され「ナイルキニック・スタジアム」と名づけられたかつての明治神宮競技場で復活した東西対抗戦が開催された。この試合には前年から行幸を始められた昭和天皇と、先日退位された上皇陛下が皇太子としてともに観戦された。「天覧試合」となった東西対抗戦はバックスタンドの芝生席もぎっしり埋まる大盛況だった。東軍はベルリンの生き残りを中心に、西軍は戦中派の選手たちが試合に出場した。スコアは2-2。試合後には陛下が選手たちにお言葉をかけられ、協会から渡されたボールを抱え、天皇陛下の後を歩いていかれた当時の皇太子殿下の姿は今でも記憶に残っている。サッカー復活を告げた試合は、ビッグスポーツと呼ぶにふさわしい雰囲気だった。
 しかし、関東ではこの試合で特別に使用が許可されたナイルキニック・スタジアムをはじめ、数多くのグラウンドが接収されていた。ラグビー協会が明治神宮の絵画館前広場を「勝手に」ラグビー場として使用し多くの観客を集めて試合を行っていたのとは対照的に、郊外に追いやられた。もう少しラグビーとの比較をするならば、関東の大学については定期戦の延長である対抗戦が主で、伝統校は常に対戦を続けていけるが、サッカーはリーグ戦形式のため、過去の有力校でも成績が悪ければ下部リーグに落ちてしまう。サッカーの厳格さが、長年国立競技場を満員にしてきたラグビーの早明戦のような盛り上がりをつくれなかった要因であったと思う。同時に、サッカーは世界中で人気があり、協会も国際大会を重要視していた。たとえ、ヨーロッパの小国であっても、日本代表はなかなか勝つことは難しい。イギリスを中心に国際試合の相手が限られるラグビーに比べて損な役回りになっていたのかもしれない。
 そういう状況の中でも小学校、中学校を中心にサッカーの競技人口は着実に増えていった。1960年から日本代表チームのコーチを務めた「日本サッカーの父」デッドマール・クラマーの存在もあり、1964年東京オリンピックではアルゼンチンに勝利を収め、1968年メキシコオリンピックでは釜本邦茂、杉山隆一らの活躍で銅メダルを獲得と国際舞台でも結果を残した。さらに1965年からはクラマーが提唱した「トップリーグ創設」の掛け声に合わせ、日本サッカーリーグをスタート。着実に成長を続けてきた日本サッカー界に足りなかったもの。それはワールドカップの出場権だった。

(月刊グラン2019年7月号 No.304)

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