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新元号・令和を迎えてA

 長い歴史を持つフランス・トゥーロン国際大会で2020年東京オリンピックを目指す選手で構成されたU−22日本代表が初の決勝進出を果たした。国際大会での活躍は、競技が多くの国民にとって関心事となるきっかけになる。今や6大会連続出場となっているが、サッカーにおける頂点の大会、ワールドカップ初出場への道は、思いのほか険しかった。

韓国の高い壁、選択肢はプロ化のみ

 前回も触れたが、世界の多くの国で人気スポーツとして認知されているサッカーは、他の競技に比べても国と国による国際試合の数が自然と多くなる。日本は1968(昭和43)年のメキシコオリンピックで銅メダルを獲得したことでサッカー人気が高まり、デッドマール・クラマーが提唱し65年からスタートしていた日本サッカーリーグ(JSL)にも多くの観客が詰めかけた。しかし、日本人にとって競技への関心を高める最高の舞台であるオリンピックへの出場がメキシコを最後に途絶え、サッカーの祭典・ワールドカップに一度も出場していない状況が続くと、その人気も長続きはしなかった。
 日本から一歩外に出ればアジア各国でもメジャースポーツとして人気の高いサッカー。中でも、すでに54年のスイスワールドカップにも出場している隣国・韓国が日本にとって長年大きな壁となって立ちはだかっていた。そのライバルに83年、プロサッカーリーグ(一部チームはアマチュア)が誕生し、効果はすぐに表れる。3年後の86年メキシコワールドカップには最終予選で日本代表を破って32年ぶりの出場を果たす。日本サッカー界悲願の「ワールドカップ出場」を達成するため、残された選択肢はプロリーグ創設しかなかった。
 選手は一足先にプロとなっていた。86年、ドイツ・ブンデスリーガでの活躍を土産に帰国した奥寺康彦、日産自動車のエース木村和司の2人がスペシャルライセンス・プレーヤーとしてプロ契約を結ぶ。しかし、大多数の選手はJSLの企業チームでプレーし、30歳前後で社業に戻る。それがサッカー選手としての人生設計だった。奥寺や尾崎加寿夫のようにJSLチームから海外に渡る選手はもちろん、大学卒業後単身ドイツに渡った風間八宏(現グランパス監督)、高校を中退してブラジルに渡った三浦知良(現横浜FC)はごくまれなケースだった。しかし、日本にプロリーグができ、プロの選手を育成するためには、指導者もプロフェッショナルが求められることで、一生サッカーに携われるという希望を持つことができる。文字通り「サッカーで食べていく人」が増えれば、サッカー界全体に自然と厚みができて、急速にレベルアップするのは当然のことだ。

ピッチ内外で厚み増した日本サッカー

 平成に入り1993(平成5)年にJリーグがスタート。27年目を迎える現在、日本代表を務める森保一監督をはじめとした各世代のナショナルコーチングスタッフ、Jリーグ各クラブに所属する日本人指導者の大半がJリーグでのプレー経験を持つようになった。層の厚みは選手や指導者だけでなく、チーム関係者やメディア、観客に至るまで、サッカーに携わる人の数が大きく増えた。Jリーグ開幕当初は「サッカーを知らない記者が増えた」といぶかしむ声も聞かれたが、記者は職業としてサッカーに取り組むのだから、一生懸命勉強もするし、自然とレベルも上がるものだ。プロ化によって、フットボールを取り巻くすべてがレベルアップした。
 Jリーグ創設の年に訪れた94年アメリカワールドカップ出場の好機は「ドーハの悲劇」によって逃したが、96年には28年ぶりに出場したアトランタオリンピックでブラジルを破る「マイアミの奇跡」を起こし、薄氷の最終予選を戦い、98年フランスワールドカップ初出場を果たした。国際舞台へ大きな一歩を踏み出した日本サッカーは、イタリアに渡った三浦知良を皮切りに、一気に国際化への道を歩み、多くの選手を欧州主要リーグに送り出した。今や日本代表の半数以上を「欧州組」が占める、昭和の頃には考えられない時代を迎えた。
 他の競技団体から見れば、競技人口の多いサッカー界はもっと早くからプロ化すべきという声もあった。ただ、世界中におけるレベルが高く、お隣の韓国にもなかなか勝てない状況の中でプロ化について躊躇していたことも背景にあった。アマチュア時代に染みついた慎重な姿勢が色濃く残り、「サッカーで多くのチームをつくって大丈夫なのか? 失敗したらどうする」という保守的な発言が一定数あったのも確かだ。しかし、10チームでスタートしたJリーグが、J1からJ3まで55クラブが名を連ねるまでに成長した。プロ化によってサッカーのレベルが上がり、見ていて面白ければ、その地域のお客さんが金を払って見に来てくれるのは当然のこと。私自身は、みんながもう少し早く気付いてくれればと思っていたし、サッカーの成功により他の競技団体も足踏みせずに一歩前へ進んでほしいと願っていた。一時期、国際舞台から締め出されそうになったバスケットボールを復活させ、来季から日本人初の1億円プレーヤーとなる富樫勇樹(千葉ジェッツふなばし)を生み出したBリーグを見ても明らかだ。Jリーグが平成のスポーツをリードし、他の競技団体に与えた影響は計り知れない。

(月刊グラン2019年8月号 No.305)

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