賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >南米との架け橋、北山朝徳さん逝く

南米との架け橋、北山朝徳さん逝く

 6月18日、長年アルゼンチンに拠点を置き、同国にとどまらず南米との架け橋として日本サッカーに大きく貢献した北山朝徳さん(日本サッカー協会国際委員)がブエノスアイレス市内の病院で亡くなられた。72歳だった。40年以上にわたり親交を深めてきた北山さんとの思い出を振り返り、独特の発展を遂げるアルゼンチンサッカーにも触れてみたい。

実業家として単身渡航、小学校で言葉学ぶ熱意

 北山さん死去の報を受け、当時ブラジルで行われていた南米選手権に参加していた日本代表チームが、練習前に黙祷を捧げた。彼が大きな足跡を残した南米の地で代表チームが戦っていたのも不思議な縁だと感じる。ここ数年は体調を崩していると聞いてはいたが、豪快な生き様を貫いた人物の訃報に接し、その存在の大きさをあらためて感じている。
 北山さんは広島県出身。サッカーの経験はなかったが、大学卒業後に単身アルゼンチンに渡り、運送業や旅行代理店を設立した。当初から「一人前のアルゼンチン人になろう」と決意し、現地の小学校で子どもたちとともにスペイン語を学んだというエピソードからも並々ならぬ情熱が伝わってくる。
 私は1978年にアルゼンチンで開催されたワールドカップの現地取材で北山さんと出会った。彼もこの大会を機に日本サッカー協会のサポートを始めるようになった。その後も南米選手権などの取材で幾度もアルゼンチンを訪ねたが、チリとの国境近くまで案内してくれるなど、本当に親しく接してくれた。日本のメディアは、親切で分け隔てなく接してくれる北山さんを頼りにしすぎて、南米のサッカーを真剣に勉強することを怠ってしまったのではないかと今でも思っている。
 北山さんがアルゼンチンに赴いた当時、ブラジルから日系人のネルソン吉村やセルジオ越後、与那城ジョージらが日本リーグのチームに「助っ人」として来日したばかり。南米におけるもう一つのサッカー大国・アルゼンチンとのパイプはまだ細かった。しかし、アルゼンチンが初優勝したワールドカップの翌年、79年に日本で行われたワールドユース選手権(現Uー20ワールドカップ)で来日したマラドーナ、ラモン・ディアスといったスター選手の存在が、ブラジルとは一線を画すアルゼンチンサッカーとの距離を縮めた。その際、北山さんの存在は大きく、後にラモン・ディアスが横浜マリノス(当時)に加入する際にも尽力した。
 北山さんはアルゼンチンにとどまらず、南米連盟との太いパイプも構築し、それまでヨーロッパに重きを置いていた日本サッカー界の国際化に厚みを加える大きな役割を果たした。トヨタカップの南米代表チームなどの窓口となり、日本代表やクラブが南米へ遠征する際の交渉役にもあたった。日韓共催となった2002年ワールドカップの招致活動において、南米連盟の理事がいち早く日本支持を表明したのも、北山さんの日ごろの交流があったからだと聞く。明るく、誰にも親しまれ、南米との架け橋として生涯を捧げた北山さんの貢献は、日本サッカー殿堂に入るにふさわしいと思っている。

アルゼンチンの象徴・マラドーナ

 北山さんを通じて深く知ることとなったアルゼンチンサッカー。その象徴はなんといってもマラドーナだ。1978年に地元で開催されたワールドカップでは監督が「経験不足」を理由に最終メンバーから外した。当時のメンバーを見ると、扱いづらい選手だったという背景もあったのだろうとも感じていた。
 ただ、翌年のワールドユースで見たマラドーナのプレーは衝撃的だった。ボールをこねているところで、すでに自分のものとなっている。全速力で走りながら左足にボールがくっついているようなボールタッチがとても印象的だった。
 アルゼンチンに行くと毎回感じることだが、彼らは子どものころから常にボールを扱い慣れている。まるでボールと戯れているような感覚が自然と身についている。マラドーナやメッシのような「ボールの申し子」は、まさにアルゼンチンの特徴だ。永遠のライバルであるブラジルも同様の特徴があるものの、一般的に身体能力が高いと言われる黒人層の多いブラジルと異なり、アルゼンチンは大半が白人またはヒスパニック。それでもブラジルの黒人選手と変わらぬテクニックを見せている。最近アルゼンチンから来日する選手が少ないように感じているが、独特のスタイルをJリーグでも見てみたい。 ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイなど、土地の中から湧いてくるような南米各国がプライドをかけて覇を競う南米選手権は、何度見ても楽しかった。ファウルの応酬を含めた激しい攻防が多く、彼らがヨーロッパのクラブチームで見せているプレーはあくまで「よそ行き」なのだと感じる。そういう試合の中でもマラドーナの存在は光っていた。腕を引っ張られていても足でしっかりボールを操っている。よくあんなことができるものだと記者席で何度も感心した。
 今でも忘れられない光景がある。ワールドカップや南米選手権などの大きな大会でアルゼンチン代表が勝つたびに、本当に広いブエノスアイレスの大通りを、どこからともなく街中から繰り出してきた人々が埋め尽くし、喜びながら行進していた。サッカーに対する情熱がほとばしる光景は、長年南米から日本サッカーを見つめてきた北山さんにとっては見慣れたものだったはずだ。今やワールドカップの常連国になり、本当に多くの選手が海外でプレーすることが当たり前になった。広大な南米大陸に大きな礎を築いた北山さんのご冥福を心から祈りたい。

(月刊グラン2019年10月号 No.307)

↑ このページの先頭に戻る