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サッカーチームの監督とは?

 今年のJリーグも多くの監督が途中交代を余儀なくされた。チームが勝てなくなると監督に対する風当たりが強くなる、何とも因果な商売だ。監督の存在とは何なのか。私の経験を含めて紹介していきたい。

学生チームの監督はマネジメント能力が大事

 私も戦後、母校・神戸大学の指導を経験したこともあるが、私が学生のころは、監督という存在は、チームの中で一番年上であり、なおかつサッカーを知っていれば、自然と監督のような存在になっていた。
 以前にも記したが、私が旧制神戸一中(現・神戸高校)に入学した時は、体が小さく、サッカー選手になる気がなく、サッカー部への入部をためらっていた。3年生になり、兄の賀川太郎が最上級生の5年生になっていてサッカー部のキャプテンをしており、太郎の親友だった則武謙さんがマネジャーをしていた。ある時、則武さんから「俺を手伝って、兄を応援してみたらどうだ」と声を掛けられ、マネジャーとしてサッカー部に入部した。ボールを蹴りたくて選手になりたくて入ってきた選手とは違い、初めから人の面倒をみるという立場でサッカー部に入部した。その部分で感覚が違っていたのだろう。
 私をサッカー部に誘った則武さんも、後輩の負傷に伴い選手として明治神宮大会などに出場し、後に神戸経済大学(のちの神戸大)に進学し選手となって、日本代表としてアジア大会にも出場するわけだが、則武さんがマネジャーから選手になったことで練習計画や手順などについては3年生の秋ごろから私が作成することになった。そういう私も5年生になって、FWが一人足りなくなったという理由でマネジャーから選手に転向したのだから不思議なものだ。選手たちが全体練習後に個人練習をしている時に時間が空いていたマネジャーの私が、サブのGKにボールを蹴り続けていたことが自然とシュート練習になり、選手としてゴールを決めることに役に立ったというわけだ。
 このチームにも大人の指導者は関わっていた。体育教師だった河本春男さんという部長がいた。愛知県出身で同県のサッカーで名門だった刈谷中学(現・刈谷高校)でサッカーを始め、東京高等師範(現・筑波大学)を経て神戸一中に赴任していた。しかし、私が3年生の時に岡山の女子師範学校に転勤することになり、東京高等師範から新しい先生が赴任してきたが、若い先生だったため抑えがきかず、兄の太郎がキャプテンとして現場で指揮を執っていた。しかし、生徒主体だとどうしてもオーバーワークになってしまう。神戸一中が全国優勝の常連であるため、先輩たちが入れ代わり立ち代わりやってきて激励をするので、オーバーワークに拍車をかける格好になった。太郎が一番元気で、練習最後までついていける選手がいないなど、知らず知らずに無理をしていたことがたたり、夏の全国蹴球選手権を制することができなかった。この経験を通して学生チームを率いるうえで、マネジメントができる監督という存在が大事だということを痛感した。

日本人が海外の有力クラブの監督に

 兵隊に赴いた私も終戦となって復員し、京都などで仲間とボールを蹴り始めていた。終戦直後、関東では大学とそのOBによって構成された慶応BRB、早稲田WNWなど強豪チームがそろい、私は関西の神戸大学や京都クラブというチームでプレーしていた。京都クラブの中で指導的な立場だったのが、のちに日本協会の会長を務めた藤田静夫さん。私よりも13歳離れていたが、またぎフェイントなどテクニックにも優れ、年長者としてプレーイングマネジャーとしての役割を果たしていた。
 1951年にインド・ニューデリーで行われた第1回アジア大会に出場した日本代表の大半は、神戸一中出身で占められた。監督もその中の一人、二宮洋一さんが兼任で務めた。
 アジア大会の終了後に、戦前の日本代表で選手兼監督を務め、戦後、日本蹴球協会理事長に就いていた竹腰重丸さんが、実質的に初の専任監督として指揮を執るようになった。それから10年後、日本サッカーの父とも呼ばれるデッドマール・クラマーの助言によって、指導者の持つ重要性がより明確になり、現役を引退したばかりの長沼健監督が岡野俊一郎コーチとともに日本代表を指導する新たな体制が確立した。指導者という側面では日本サッカーが新しい時代を迎えた瞬間でもある。その後、ハンス・オフトが初の外国人監督として指揮を執るまでに、そこから30年の歳月が必要になる。
 サッカー日本代表においても独立した監督、指揮官という歴史は、まだ60年くらいのものだ。今では日本代表の森保一監督を筆頭に、各年代の指導者、Jリーグ各クラブの監督がJリーグでプレーした選手で占められるようになり、日本協会はアジアの途上国を中心に指導者を派遣している。欧州や南米の有力クラブに日本人監督が就任するようになれば、日本サッカー界は新しい時代を迎えることになるだろう。

(月刊グラン2019年11月号 No.308)

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