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1964年東京オリンピック話@

 今年、2020年はオリンピックイヤー。56年ぶりに東京へオリンピックが戻ってくる。私も新聞記者として取材した1964(昭和39)年の東京オリンピックについて振り返ってみたい。 1896(明治29)年、古代オリンピックの聖地・アテネで近代オリンピックが産声を上げた。オリンピックの東京開催を目指した明治生まれのスポーツ人の尽力で1940(昭和15)年、一度は招致に成功したが、戦争の影響で返上せざるを得なくなった。それでもあきらめず戦後復興の象徴とすべく1964年大会の招致に成功した。金メダルを獲得し「東洋の魔女」と称された女子バレーボールチームを率いた「鬼の大松」大松博文監督は1921(大正10)年生まれ。サッカーの日本代表を率いた長沼健監督が1930(昭和5)年、岡野俊一郎コーチが1931(昭和6)年生まれ。明治生まれのおじいさんたちにとって悲願だった東京オリンピックで、大正や昭和初期生まれの指導者がチームを率いた。まさに明治・大正・昭和の3世代が結集したスポーツの祭典だった。
 各団体がオリンピック開催によって、自らの競技が盛んになると浮足立つ中で、サッカー界はまったく異なる雰囲気だった。大衆の前で日本代表が1勝もできなければ、日本サッカーは二度と立ち上がれないという悲壮な決意で大会に臨んでいた。このためドイツ協会に依頼し1960(昭和35)年にデッドマール・クラマーを招聘、毎年のように2カ月にも及ぶヨーロッパ遠征を繰り返した。ドイツの優秀な指導者が最初の1年に限らず、その後も日本のことを気にかけ、毎年のように来日し、進歩を見続けてくれた。その甲斐あって、駒沢競技場で行われたグループリーグでアルゼンチンにリードを許しながら3-2で逆転勝ちを収め、8強に進出。準々決勝でチェコスロバキアに大敗したが、大成功と言わしめた。
 このオリンピックに向けた取り組みの遺産(レガシー)として、海外遠征中に痛感し、クラマーが提唱した全国リーグ・日本サッカーリーグを立ち上げ、4年後のメキシコ大会銅メダルにもつながる礎となった。この動きはサッカーにとどまらず、他競技も右へならえとばかりに全国リーグをスタートさせた。ただ、他の団体は、サッカーがなぜリーグ戦の必要性を痛感したのか分からぬままに、サッカーの見よう見まねで始めていたのが実情だ。当時のオリンピック種目ではないが、野球はアメリカで盛んなメジャーリーグをまねて戦前のうちに職業野球(プロ野球)をスタートさせたが、世界各国にプロリーグがあり、その傘下にアマチュアリーグが広がるというお手本は、当時サッカー以外にはなかった。
 オリンピックで恥をかかないようにしようと世界に足を踏み出し、そこで学んだリーグ戦というシステムをスタートさせた。これを他競技がまねたことで、現代におけるスポーツの基礎が築かれたといっても過言ではない。

(月刊グラン2020年4月号 No.313)

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