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1951年アジア大会「国際経験不足が敗北の原因」

 6ヶ国参加のサッカーは3月4日の開会式の翌日から試合開始、日本は不戦勝で、1回戦はまず、イランとインドが、ビルマ、インドネシアに力の差をみせて勝つ。

 2日後、準決勝、日本・イランは午後3時キックオフ。43度の高温のなかでイランのキック・アンド・ラッシュにはじめは押しこまれ、しばらくしてパスで攻めるようになったが、相手の厚い守りに防がれる。60分(30分ハーフ)を終わって延長(7分ハーフ)も0-0で引き分けた。日本は3FB(現在のDF)のW型FWだが、相手は2FBでHBがウイングを防ぐスタイル、FWの両インサイドが深くひいて、7人で防ぎ、攻めに出るときのダッシュがすごい。ほとんどが長身。バスケットボールの代表選手をかねているものもいたという。この日もうひとつの試合ではインドがアフガニスタンを3-0で破った。

 翌日、3月8日の再試合は午後5時のキックオフ。2時間違うだけで涼しく感じるが、高山でも気温30度。こんどは日本も開始直後から攻め、二宮のヘディングなどで脅かしたが、20分にロングスローをゴール前へ投げられ、突っこまれて0-1。日本ではそのころスローインを遠くへ投げる選手もいたが、このときのロングスローインには驚いたという。

 後半13分に左からのクロスを鴾田(ときた)がヘディングして1-1。だが22分にFKからヘディングで2-1。こんどは鴾田からのクロスを二宮が決めて2-2とした。しかし、あと1分のところで再びFKからのセンタリングを押し込まれて3-2。

 決勝進出を果たせなかった日本は、つぎの日3位決定でアフガニスタンを2-0で破る。

 イランと同じスタイルだが、イランよりは力が劣り、また日本もこうした相手に馴れてきた。負傷の杉本、賀川、二宮に代わって加藤、則武、松永が出場し、後半にパス攻撃が戻って岩谷の2ゴールで危な気なく勝った。

 優勝したインドは裸足が何人かいて、とくにCFは裸足の足の裏での引きワザがうまかったという。現地ではフットワークのいいインドと体格と力のイラン、それにパスワークの日本は同じ力で、三者はもう一度やれば、どこが勝つかわからない―――という意見が多かった。大会本部は日本・イランの再試合で予想外の増収になったともいっていたが、「敗因は国際試合から遠ざかっていたこと。そのためにプレーが小さく固まろうとしていた。日本で行なっているような労働力の多い試合を、現地でしておれば勝てたかも知れないが、そのためには、"井の中のカワズ"ではダメ、やはり国際試合をたくさんして、力のサッカーとぶつかっていなくてはいけないと思う」というのが二宮監督の反省だった。戦前の日本サッカーのなかに朝鮮半島というサッカーが盛んで、スタイルの違う地域があった。(政治的や社会的な差別の問題は別として)わたしたちの世代は当時の全国大会で、ソウルやピョンヤンといった朝鮮地域の代表と試合をすることで大きな刺激をうけてきた。それが大戦後の5年間は、たまに外国軍艦のチームと親善試合をする程度で、国内だけの試合で"ベルリン五輪のころの水準に戻ったか"などと言っていた。

 イランはそのころ、すでにソ連と交流があり、インドネシアは第一回大会の不成績から強化をはじめ、ユーゴ人のコーチを招くようになる。

 大戦のあと、荒廃のなかで、焼け残った用具を集めていち早く再スタートを切った戦前、戦中のプレーヤーたちがニューデリーの暑熱と固く狭いグラウンドで貴重な経験をつみながら、それをサッカー界全体のものとし浸透させるには、まだ環境はあまりにも厳しいといえた。


(ジェイレブ  MAR.1993)

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