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1964年東京オリンピック話A

 1951年に産経新聞社に入社した私は、1958年にオリンピック招致を目指す東京で開催された第3回アジア大会で、韓国と台湾が対戦したサッカー決勝戦を取材し、翌1959年にマレーシア・クアラルンプールで行われた20歳以下の第1回アジアユースサッカー大会を現地取材した。アジア大会で1次リーグ敗退を喫していた日本サッカー界は、この大会に不利を承知で高校選抜チームを送り込んだ。日本スポーツ史上、高校生チームとして初の海外遠征として記録に残る。
 この大会もオリンピックが縁となった。アジア大会の際に当時、AFC(アジアサッカー連盟)の会長を務めていたマレーシアのラーマン首相と日本協会・野津謙(ゆずる)会長との話し合いで実現されたという。そして、日本サッカー界がユースの強化に力が入る契機にもなった。
 迎えた1964年の東京オリンピック。当時、私はすでにサンケイスポーツ大阪本社でのデスク業務にかかわっていた。しかし、サッカーだけは現場取材させてほしいと願い、スタジアムに出かけることができた。今でも忘れないのは駒沢陸上競技場で行われた日本戦で、読売新聞がサッカーの記事を読ませようとプロ野球・巨人の長嶋茂雄、王貞治の「ON」を連れてきたことだ。私は満員となった記者席で長嶋、王と並んで見ていた。二人とも「すごい雰囲気ですね」と話していたのを今でも思い出す。国立競技場に7万5000人の大観衆を集めたハンガリーとチェコスロバキア(当時)の決勝戦も取材した。2020年、サッカー決勝戦を取材することができれば、東京で行われる2度のオリンピック決勝戦を見届けることができるわけだ。
 オリンピック取材を経験した上で忘れられない人物がいる。2015年に「このくにとサッカー」でも紹介した木村象雷(しょうらい)氏=故人。私が産経新聞社に入社する際の運動部長で、日本のスポーツ記者におけるオーソリティーだ。当時、朝日新聞の運動部長だった織田幹雄さん(三段跳び優勝)と同じアムステルダム五輪で、水泳の100メートル背泳ぎに出場した。日本水泳の歴史をまとめた大家で、日本の古式泳法にも詳しかった。自分の頭の上に弁当を置いて泳ぎに出て、岩の上でその弁当を食べて昼寝して帰ってくるという本当の水の男だ。
 自らオリンピックに出場し、その後ベルリン、ヘルシンキ、メルボルン、ローマの各大会を取材した大記者のもとで仕事をした幸運のおかげでいろいろな勉強ができた。イギリスの「ワールドスポーツ」など国際的なスポーツ雑誌を読むようになったのも木村氏のおかげだった。その木村氏は自らの著書で「世界最大のスポーツはなにか、ということになると、サッカー・フットボールといっていい」と記していた。

(月刊グラン2020年5月号 No.314)

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