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Jクラブオーナー・岡田武史 出会いから半世紀

 前号の最後で、今季からJ3に昇格したFC今治の岡田武史オーナーがチームづくりの根幹にしている「岡田メソッド」について触れた。初めて出会ってから半世紀、日本サッカーをリードし続けてきた男の生き方を振り返ってみたい。
 岡田武史と初めて出会ったのは1969年、彼が中学3年生の時だった。「ドイツでプロサッカー選手になりたいと親を困らせている中学生がいる」と紹介され、大阪市内で会った眼鏡をかけた中学生に「ドイツでやるのは早い。中学、高校で一生懸命にサッカーをやりなさい」と諭した。それから時が経ち1980年、元日本代表監督の高橋英辰さんと静岡で行われたジャパンカップ(現キリンカップ)を見に行った時に「岡田です。ドイツの時はお世話になりました」と話しかけてくる日本代表DFがいた。実に11年ぶりの再会だった。
 1年間浪人して入学した早稲田大学から古河電工に入社した岡田は日本リーグだけでなく、日本代表としてもプレー、1990年に現役引退して古河のコーチになると、2年後には指導者としてのドイツ留学を実現させた。現地では自分からクラブに頼み込んで指導者の中に入り込んで仕事をさせてもらったと聞いた。自ら道を切り開いてきた彼の性格そのままの体験だった。
 1995年からは加茂周監督の下で日本代表のコーチに就任、1997年にはワールドカップ最終予選途中での加茂監督退任に伴い、代理監督として窮地のチームを立て直し、「ジョホールバルの歓喜」で初の本大会出場を決めた。その後はコンサドーレ札幌、横浜F・マリノスで指揮を執り、2007年にイビチャ・オシム監督の急病に伴い2度目の代表監督就任、ワールドカップ南アフリカ大会出場と国外大会では初のグループリーグ突破という結果を残した。
 退任後、日本協会の理事についた岡田は、他人が敷いたレールの上では満足できず、自分でやってみないと納得できないとばかりに2012年、理事の職を辞して、中国スーパーリーグ杭州緑城で指揮を執った。さらに2年後、指導者としての区切りをつけて、FC今治の過半数の株式を取得してクラブ経営に乗り出す。
 人口16万人という地方都市でのクラブ経営挑戦。話を聞いた時は、正直言って「どうしてそんなところに」と驚かされたが、自らの経験をもとに、チームやクラブを育成・強化して日本サッカーにおける経験値をつくろうという岡田の信念を感じた。トップチームから育成組織まで、統一されている考え方「岡田メソッド」は、彼の勉強と経験の結晶でもある。
 半世紀前、私にサッカーへの情熱をぶつけた岡田もこの夏で64歳になった。あの時見せた情熱は変わらず、常にサッカーを考え、日本サッカー界の指導的な役割を担っている。彼と、彼を取り巻く周囲の人間がどれだけ成長し、周囲が岡田武史からどれだけの思いを受け取って日本サッカーのレベルを上げていけるのか。これからの歩みも非常に楽しみにしている。

(月刊グラン2020年10月号 No.319)

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