賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >サッカー発祥の地・神戸の150年(後編)

サッカー発祥の地・神戸の150年(後編)

 1871年、神戸でサッカーが行われたという日本最初の記述から来年で150年。その歩みを前号に続いてつづっていく。
 1970年。現在はノエビアスタジアム神戸が建てられている御崎公園に、収容人員1万2000人の神戸市立中央球技場が完成する。球技場として日本で初めてナイター照明を備えたスタジアムは、1979年ワールドユースや多くの国際大会に利用され、ペレ、ベッケンバウアー、マラドーナなど世界のスーパースターがプレーし、関西のサッカーファンを楽しませた。
 神戸では同時に、先人たちが目指してきたヨーロッパ流の「誰もがボールを蹴られる」クラブ設立に向けて歩みが進んでいた。1965年には神戸少年サッカースクールがスタート、1970年には日本初の法人格市民スポーツクラブである「社団法人神戸フットボールクラブ」が設立された。年齢別のチーム編成などサッカーの街にふさわしい組織だった。
 このような先進的な動きを見せた神戸だが、街を代表するトップチームの存在については他地域に大きく後れを取った。1964年の東京オリンピック終了後、関西経済の地盤沈下は顕著で、スポーツにも勢いがなくなり、重工業が基盤産業の神戸も大きな影響を受けた。日本リーグ時代は兵庫県尼崎市を拠点とするヤンマーディーゼルが中央球技場をホームスタジアムとして活躍したが、1991年、日本初のプロリーグ・Jリーグ10クラブ発表時には松下電器が万博記念競技場を本拠地にした関西勢唯一のガンバ大阪として参加。「オリジナル10」参加が見送られたヤンマーも熟考の末、大阪・長居をホームタウンとするセレッソ大阪設立に参加する。
 神戸のサッカー界がホームタウンクラブを求めて署名活動などをした末、神戸を発祥の地として巨大総合スーパーを築き上げた中内功氏率いるダイエーがメーンスポンサーとなって「オレンジサッカークラブ」を設立。当時JFL(現在のJFLとは異なる)に所属し、岡山県倉敷市で活動していた川崎製鉄(本社・神戸市)のサッカー部を誘致し、ヴィッセル神戸として1995年スタートした。
 しかし、練習始動日だった1月17日に阪神・淡路大震災が発生、ダイエーもこの年春にスポンサーから撤退と出だしから大きくつまずいた。1997年Jリーグ昇格を果たしたが、常に厳しい運営を強いられ2003年には民事再生法適用を申請、2004年からは兵庫県出身の楽天・三木谷浩史氏の下で再スタートした。2017年にはドイツ代表のポドルスキ、2018年にはスペイン代表のイニエスタと相次いでビッグネームが加入。2020年元日には念願の初タイトルとなる天皇杯を獲得。兵庫県のチームとしては1975年元日のヤンマー以来45大会ぶりの天皇杯優勝だった。
 開港とともに外国人たちによって持ち込まれた神戸のサッカー。2002年には日韓共催ワールドカップの国内開催地にも選ばれた。目の肥えたサッカーファンが多い街をホームタウンとするヴィッセルは実績を積み重ね、より大きな存在になってほしい。その歴史をこれからも見届けていきたい。

(月刊グラン2020年12月号 No.321)

↑ このページの先頭に戻る