賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >1951年、スウェーデンのヘルシングボーリュに学ぶ

1951年、スウェーデンのヘルシングボーリュに学ぶ

1951(昭和26)年11月下旬から12月はじめに来日したスウェーデンのヘルシングボーリュは、戦後のスポーツ界で欧州チームの初来日。各地で多くの観客が集まり、その水準の高さと、日本との差をあらためて知った。わたしにとっても、ヨーロッパのサッカーをナマで見て、そのプレーを肌で感じた大きな経験だった。

 昭和26(1951)年という年は、3月に第一回アジア大会があって、日本も選手団を送り(第9号に掲載)4月19日のボストンマラソンには19歳の田中茂樹が初優勝と、国際スポーツも少し賑やかになろうとしていた年だった。隣の朝鮮半島の戦争でマッカーサー元師がトルーマン大統領と見解が一致せず、国連軍最高指令官を解任される(4月11日)一方、9月にはサンフランシスコ講和条約が、アメリカ、英国ら48カ国と日本との間で調印され"戦後"は少しずつ変わりはじめていた。

 アジア大会で実際に、新しいアジアの国々のサッカーのレベルを知った協会首脳は、つぎはヨーロッパの戦術や技術を学ぼうとしていた。そこにスウェーデンのヘルシングボーリュ・クラブの来日希望があって、サッカー界にとっては昭和13年のイズリントン・コリンシアンズ以来13年ぶりに欧州チームを迎えることになった。

 スウェーデンは第二次大戦中は中立を保ったため、ヨーロッパのほとんどが戦場と化したなかで、国土には直接の被害はなく、スポーツは戦争中でも続いていた。1948年のロンドン・オリンピックでもサッカーは優秀選手をそろえて優勝し、アマチュア・ナンバーワンの実績を持っていた。このときの代表の多くはイタリアなどへ流出したが、1950年のブラジル・ワールドカップでも、海外組を加えた代表チームは、一次リーグでイタリア(3-2)を破り、パラグアイ(2-2)と引き分け、二次リーグではブラジル(0-3)に負け、ウルグアイ(2-3)にも惜敗したが、スペイン(3-1)を破って4位を占めた。

 ヘルシングボーリュはスウェーデンの南端のヘルシングボーリュ市にあるクラブ。同市はそのころ人口7万人余、クラブは1907年の創立で、正式にはヘルシングボーリュ・イドロッツ・フェルスといい一部リーグ3位(現在は二部)でチームには代表選手、代表経験者が7人。

 ストックホルムのスポーツ紙の社長であるテグナー団長以下、役員5人、選手15人の一行は11月22日朝、羽田につき、まず京都に泊まったのち、関西で2試合、27、28日は九州八幡と広島、29日に東京に移り、12月1日に大宮、2日に東京・神宮競技場で―――と、12月4日にサイゴンへととび立つまでの13日間に六都市をまわり、6試合を行ない、全日本選抜との2勝をふくんで6勝無敗、総得点36、失点0の成績だった。

 彼らのプレーを初めて見た23日の対全関西戦で、わたしたちは、予想と全く違うプレーに驚いた。

 ベルリン・オリンピック当時の報告では、スウェーデン代表は大きな体を活かして、ロングパスを使い、ゴール前へハイ・クロスをあげて突っこんでくるイングランドのスタイル、と聞いていた。

 実際の彼らは、柔軟なボール扱いで、細かくつなぎ、要所で鋭いダッシュをみせる。DFラインは、さすがに背は高いが、決して激しいタックルというのでなく、巧みなポジショニングで相手の動きを封じてしまう。

 全関西は木村現、瀬戸三郎といった駿足の関西学院の学生とOBを主に、速攻がどれだけ通じるかを狙ったが、単純な早さでは3FBの堅陣は抜けず、またミッドフィールドでの動きの量もテクニックも違ってボールがとれず0-5で完敗した。


(ジェイレブ MAY.1993)

↑ このページの先頭に戻る