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「ACL」から見えるアジアの未来(後編)

 前回はアジアにおけるサッカーの歴史について記したが、今回はアジアの枠を超え、世界の大国になった中国のサッカーについて話を進めていきたい。
 中国はシンガポールなどを通じてサッカーが伝わり、国内で盛んに行われてきた。1913年に始まった極東選手権では中華民国(中国)は10回中9回優勝。日本は1930年5月に東京で行われた第9回大会で初めて3−3で引き分け、両国優勝はしたものの、常に高い壁として立ちはだかっていた。
 私が生まれ育った神戸は開港後、早くから数多くの外国人が居住していたが、中でも中国系居住者のサッカー熱は高く、彼らの熱は日本人にも大きく影響を与えてきた。小学生時代を過ごした1930年代、神戸の街で一番強かったチームは中華民国の小学校や中学校だった。彼らはよく神戸の教職員チームと試合をしていたが、中学生はもちろん小学生でもいい勝負をしていた。そのころの神戸の先生たちは、全国中等学校選手権で第1回大会から7連覇し強豪として知られる御影師範出身が多かった。その先生たちを相手に小中学生がいい勝負をしてしまうのだから、戦前の中国サッカーのレベルが分かるだろう。
 しかし、戦後の中国は呼称問題でFIFAやAFCを一時脱退、80年代から国際大会に復帰したが、ワールドカップ本大会に出場したのは日本と韓国が開催国として予選を免除された2002年日韓共催大会の1度のみ。アジアカップでも優勝経験がない。昨年末のFIFAランキング75位はアジアで9番目。オリンピックでは数多くの金メダルを獲得し、アスリート大国として自他ともに認めている中国が、なぜかサッカーについては日本、韓国はおろかアジアの中でも後塵を拝している。
「日本サッカーの父」故デットマール・クラマーは、日本での成功を足掛かりに、世界70カ国以上で指導を続けてきたが、中国でも大きな足跡を残している。彼が晩年の指導者研修を担当してきた中国足球学校を訪ねたことがある。北京から車に乗って天津郊外にある学校に向かったが、道すがらどこまでも広大な土地が広がっていたのが印象的だった。これならばグラウンドがいくらでもつくれるし、いい選手が育つだろうと考えた。
 習近平国家主席はサッカー好きとしても知られている。大国としての威信を示すために、国内リーグの各クラブは豊富な資金を使い、海外から数多くの有力選手を獲得してきた。代表チームはもちろん、グランパスをはじめ日本のクラブは、ACL(AFCチャンピオンズリーグ)の舞台で、今後も中国のクラブとしのぎを削ることになるだろう。
 GDPでアメリカに次ぐ経済大国になった中国は、FIFAをはじめサッカー界にとっても魅力的なマーケットでもある。かつては中国の壁を破ることを目標にしてきた日本にとって、「眠れる巨人」は今後も不気味な存在となるだろう。

(月刊グラン2021年5月号 No.326)

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