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1951年ヘルシングボーリュの来日「ベルリンの借りをかえそう」

 第2戦は、彼らにとっても1936年のベルリン・オリンピックで日本に逆転負けしたスウェーデン代表の"借りを返す"チャンスであり、なかなかの意気ごみだった。

 日本側はその36年の竹腰重丸コーチが監督に、CFだった川本泰三がコーチ兼選手となっていた。

 午後2時キックオフのこの試合は西宮競技場のスタンドが満員となり、わたしは、その最上段に特設した報道記録用のボックスの中で双眼鏡を手に息をこらしてみていた。

 はじまってしばらくして、まず気がついたのは長身ぞろいのDFの走るフォームが非常にきれいで、動きの速いこと、日本で足に自信のある加納が左サイドでボールをタテに出して突進しても、併走するマルムストロームも速いために抜けないこと。また3FBとHBの連係がよく守備線というより守備網が巧みにつくられスルーパスのコースが押さえられること。

 それまでに、マン・ツー・マンの3FBを破るために―――と称してポジション・チェンジや、クリス・クロス(十字の交差)の動きをとり入れるやり方をはじめていたが、ヘルシングボーリュのFWはそれをもっと大きく素早くやっていた。考え方が同じなのはうれしかったが、彼らはアイスホッケーの動きをとり入れたのかもしれない。

 日本はよく防いだが、DFのトラップミスを拾われて1点を失ったのは痛かった。ただしミスが出るというのは、それだけ追い込まれている証でもあった。

 前半は少ない小さな動きだった彼らは後半両ウイングからの攻めを多用した。そのスピードにわがDFがいささか疲れはじめたころ、左のベングトソンがペナルティエリアの中、ゴールラインぎりぎりで、日本のDFを引きつけて打って、くずし、右のP・ニールソンが決めた。3点目は日本DFの間をヨンソンが突破してきめた。このとき、彼がわざとボールを浮かして日本のタックルをかわしたところに、彼らの技術があらわれた。

 川本コーチの話では、ヘルシングボーリュは16年前のスウェーデン代表よりも、格段に技術が進歩しており、そのボールテクニックを基礎に戦術もまた大きく変わったという。

 選手たちのクツをみると、わたしたちのものより皮が柔らかく、軽い。先端に固い皮を入れクルブシまでかくれる英国型とは違う。

 かつては英国式だったが、1950年のブラジルW杯の影響でブラジル式のクツに変わったという。

 "北欧の巨人"、あのキック・アンド・ラッシュの伝説の国がボールテクニックと、長短自在の攻撃に変わったのに驚くとともに、わたしはベングトソンのような21歳の若者が、緩と急の落差の大きいドリブルで2点目のもとを作ったのにショックを受けた。

 そのころの日本の選手で緩と急が身につくのは25〜26歳から、とくに足の速い選手は"緩"のコツをのみこむのがむずかしいのに、彼らは楽々とやってのける―――サッカーの世界の広さを、わたしはこのときから、もっと知りたいと思うようになった。

 日本の選手やコーチたちは、このヘルシングボーリュから多くを学んだ。しかしそれを実行に移すには、まだまだ時間が必要だったし、そうした技術や戦術の解説をするためにも、わたしたちは、まだまだ勉強しなければならなかった。


(ジェイレブ MAY.1993)

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