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1956年メルボルン・オリンピック「不安と期待の若返り策」

 1956年メルボルン・オリンピックは、日本が初の地域予選を突破した記念すべき大会。この年6月3日と10日に東京・後楽園競輪場で行なわれた韓国との2試合はまことにタフな戦いで、1勝1敗、抽選で日本が出場権を得たのだった。

 第二次大戦の終結(1945年=昭和20年)から11年、ロンドン(48年)ヘルシンキ(52年)をへて戦後3度目のオリンピックは、はじめて南半球のメルボルンで行なわれることになった。会期は11月22日から12月8日、北半球の国々にとっては冬の"夏期大会"だった。

 サッカーはこれまで、参加チームが16を越えると大会直前に予選を行なっていたが、この大会から、それぞれの地域で予選を行なうことになり、予選第13組極東地域は、日本と韓国で争うことになっていた。ホーム・アンド・アウェーでなく2試合とも東京になったのは韓国側の事情。会場は国立競技場(神宮競技場)が改装中のため、後楽園の競輪場内のフィールドだった。競輪場は後になくなり、いまのドームの敷地となったが、東京オリンピックまでは国立競技場が使用できないときにサッカーのビッグゲームを開催した。なにしろ芝生のフィールドのあるスタジアムは都内で少なかったから。

 そのスタンドは2試合とも2万の観衆で満員。3分の1は韓国チームの応援だった。小学生の団体が旗を振り、のぼりを掲げたが、その中には「勝利か国賊か」という激烈な言葉もあり、負ければ国賊といわれるほどの韓国のサッカー熱と、日本への対抗意識の強さをあらわしていた。

 韓国ほどの国民的盛りあがりはないにしても、日本協会にとっては、この予選は当時の総力を結集しての大きなカケだった。技術指導部は、1954年(昭和29年)の第2回アジア大会(マニラ)のあと、日本代表の若返りをはかった。主力は1953年(昭和28年)に学生選抜として西ドイツのドルトムンドで開催された"国際学生大会"つまり現在のユニバーシアードに参加した選手。長沼健、平木隆三、小林忠生……をはじめとする学生、あるいは卒業間もない若手。

 戦前、戦中派は、鴇田正憲(ときた・まさのり)、岩谷俊夫、松永信夫を残すだけにして、1955年(昭和30年)4月から40人の候補を選んで再出発した。

 技術や経験のある戦前、戦中派も社会人として中堅の年齢層となって、持てる技術をより高める練習という点でムリのある状態だったから、技術的にはそのレベルに達していなくても将来性のある若手、練習を充分できる層へ切りかえたのだった。

 10年後にやってきたドイツ人コーチのクラマーが、こんな代表チームの人為的な大量若返り方式を聞いて「それでは先輩たちからの技術の伝承ができない」といったが、そういう問題点も承知した上での代表編成は、指導部にすればルビコン河を渡る心境だった。

 1958年東京で開催される第3回アジア大会をめざしてスタートし、もっぱら個人技術の習得を目標にトレーニングをはじめた代表チームに、メルボルン予選のチャンスが来た。JOC(日本オリンピック委員会)の予算の都合で、人数が多く、しかもメダルの可能性の少ないゲームの五輪参加は"敬遠"されがちだが、予選に勝ったものを、JOCも除外はできまい―――とエントリーし、韓国と対決することになった。

 韓国は明治末期から第2次大戦の終わりまで、日本の領土となっていた関係で、サッカーでは仲間であり、朝鮮半島出身の優れた選手が日本代表として活躍し、関東、関西、朝鮮の3地域対抗では、独特のスタイルで関東、関西の強力なライバルだった。

 独立してから1948年のロンドン・オリンピックに参加するなど、早々に国際舞台へ乗り出し、第2回アジア大会では準優勝し、1954年W杯スイス大会にも参加し、世界のトップの空気にもふれていた。


(ジェイレブ JUN.1993)

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