賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >1956年メルボルン・オリンピック「韓国との死闘を乗り越え20年ぶりの出場」

1956年メルボルン・オリンピック「韓国との死闘を乗り越え20年ぶりの出場」

 「手強いが、勝てない相手ではない」54年のW杯予選で韓国と対戦し、そのときは勝てなかったが、韓国の力を読んだ代表チームの川本泰三コーチはこう考えた。3回の合宿のテーマは、あいかわらず「基礎技術の向上」だったが、5人も負傷者の出る厳しい合宿を通じて選手たちに戦う姿勢が強まった。

 第1戦の戦略は、まずしっかり守ること、攻めはスピードを生かすことの2点。

 岩渕の突進力、鴇田のキープ力が攻撃のカギだった。

 第1戦の2-0の勝利は、コーチ陣の考えたとおり、それも、これ以上うまくはゆかないというほど、100パーセント狙いどおりだった。

 守備陣はCFB(当時のポジションの呼称はCH=センターハーフ)の小沢とGK古川を軸として、たびたびのピンチにも冷静に、しかも体を張ってがんばった。韓国のエース崔貞敏がこの試合の直前に左ヒザを負傷していて、そのシュートの威力が半減していたのも、日本にはラッキーだったし、後楽園の芝生が当日朝までの雨で水をたっぷりふくんで滑りやすく、芝に不馴れな韓国選手がとまどったのも、こちらにはプラスになった。

 前半を0-0で耐えたあと、後半の9分、鴇田の右サイドからの絶妙のパスを内野がダイビング。ヘディングで決めて先制した。このゴールは日本を落ちつかせ韓国に焦りを生じさせたが、(1)後方からのパスを八重樫が右へはらって鴇田へ、(2)鴇田は相手側ハーフの15メートル、右タッチラインぞいでキープ、(3)八重樫が中央から右前へ走り、(4)相手のストッパー鄭がこれを追って、中央部があく、(5)鴇田は八重樫の方へ出すフリをして、(6)相手DF全体がそれらつられた瞬間、(7)内野が後方からとび出してゴール前へ、(8)鴇田のライナーのパスがそれに合わせた―――1から8までの動きが組み合わさったビューティフルゴールだった。

 リードされて韓国は猛然と攻めるのだが、日本は32分に、また鴇田からチャンスを生む。今度は右前へ走った八重樫にボールが渡り、八重樫が1人かわしてコーナーからセンタリング、内野と相手DFがもつれてボールがゴール正面にころがるところを岩渕が強烈なシュートを決めたのだった。

 1週間のちの第2戦は鴇田が足の負傷で欠場。岩谷がイレブンに加わった。今度は韓国が2-0で勝つ。日本は前半はじめにチャンスもあり、相手の反則でPKまであったが得点できず、前半25分に内野が右足を痛めて(右足首ヒビ)歩くのがやっとという状態。交代という制度のないときだから、前線の3人とDFとのつなぎ役で、運動量の多い内野の故障は、大きく響いた。

 それでも日本は90分間を0-2で戦い、1勝1敗、得失点も2-2となって、30分の延長となってからは、むしろ果敢に攻めた。大村の持ち上がりから生まれたゴールはトロンケ主審はいったんゴールと認めたが、ラインズマンの旗があがっていてオフサイドとなった。

 第1戦90分、第2戦120分、210分戦って決着がつかず、フィールド中央で行なわれた抽選は、先に引いた韓国の紙片は"負"、残った"勝"の紙片は日本のものとなった。

 第2次強化合宿の最中に結婚式をあげ、新婚旅行は韓国戦の後にと、再び合宿にもどった小林。第1戦の直後、ハハキトクの電報を受けとって神戸へもどり臨終にようやく間に合って勝利を報告した鴇田。イレブンの全身全霊の傾倒が1936年ベルリン以来20年ぶりのオリンピック出場を実現した。


(ジェイレブ JUN.1993)

↑ このページの先頭に戻る