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1959年アジアユース「日本のスポーツ史上、高校生チーム初の海外遠征」

1959(昭和34)年4月13日、羽田を飛び立った英国航空機に日の丸をつけた若者たちがいた。第1回アジアユースサッカー選手権大会に参加する代表チームで、日本のスポーツ史上、高校生チーム初の海外遠征だった。

 「アジアのサッカーの向上は青少年プレーヤーの育成にある。青少年のためにユース大会を開催しよう」

 1958(昭和33)年、東京での第3回アジア大会の開催中に、アジアサッカー連盟(AFC)の総会が行われた。その会で、ラーマン会長(マレーシア)、野津謙副会長(日本)らの提唱でアジアユーストーナメントの開催が決定。その第1回が1959年4月18日から25日まで、マレーシアの首都クアラルンプールで行われることになった。

 2年前のメルボルン・オリンピックで日本代表は、予選で韓国を抑さえて出場しながら(前号掲載)本大会では1回戦で敗退した。東京でのアジア大会でも1次リーグでフィリピン、香港に敗れ、サッカー界はいわばドン底の気分にあった。
しかしこういうときにこそ……と高校選抜チームを派遣することにし、秋の国体・高校の部と、冬の高校選手権などの試合を参考に、全国から選手を選抜し、3月31日から最終合宿を10日間行った後、4月13日、マレーシアへと旅立った。
選手たちは高校3年生が11人、2年生が7人。選考時の学年なので、3年生は4月の大会期間中に卒業して、社会人になったものも、大学に入学したものもいた。年齢からいけば19歳になるかならないか。大会の規則では20歳以下だから、この年齢の1歳違いは大きな不利になるはずだったが、日本協会は高校選手たちに夢を持たせるためにも、不利を承知で高校選抜チームとしたのだった。

 当時、日本のスポーツ界では、高校生のチームが海外へ出かけた例はなかった。しかも花冷えのする4月の東京から、熱帯に出かけて試合をする……。何が起こるかわからないので、選手団の編成として、マネージメント役に2人を置くという"破格"の扱いをとった。

 団長に高体連会長で、都立戸山高校の校長でもある石平俊徳。監督に高橋英辰。渉外主務に西本修吉という役員構成に、私、賀川浩が主務兼報道係として加わったのも、こうしたいきさつからであった。

 ナイフとフォークの使い方を知らない若者のためにと、篠島副会長にフルコースの食事会にも招待してもらい、実地講習も行った。参加費用は選手1人分で20万円。航空運賃と国内での合宿などの費用に当てられ、現地の滞在費はマレーシア協会が負担した。この20万円は、各都道府県協会が調達したので、優秀選手の多い地方では金策が大変だったろう。

 今のBA(英国航空)その頃のBOAC(英国海外航空)と言っていた会社が、ジェット機を就航させた。

 高校チームはまず香港に飛び、ここで丸1日滞在。まず暑さと海外での第一歩に馴れさせられた。そして、15日にキャセイ航空でクアラルンプールへと向かったのである。

 選手たちの宿舎は工業高校の教室にベッドを持ち込んだもので、参加8チームはここで共同生活をした。

 夜になると壁や天井にヤモリが張りついたり、ヤシ油の香りのする食事などは、私のような戦中派には懐かしいような暮らしだが、彼らにとっては驚きを越えた辛い体験だった。

 そんな中で彼らは、高橋監督の見事な指導のもとに一つのチームとして結集し、堂々たる3位という成績を残したのだった。


(ジェイレブ JUL.1993)

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