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ブラジルサッカーの草創〜サンパウロとリオから全土へ
1894年に、サンパウロ在住の英国人チャールズ・ミラーが、英国での学校生活を終えて帰国するとき、2個のフットボールを持ち込んだーのがブラジルにサッカーが伝わった初めという。1894年といえば明治27年。日本では明治6年(1873年)に英国海軍のダグラス少佐とその部下たちが東京の築地にあった海軍兵学校でプレーをした記録があるから、サッカー導入は日本の方が21年も早い。チャールズ・ミラーは自分の勤めた鉄道会社の英国人たちとチームを作り、ガス会社や銀行のチームと試合をするようになる。
西暦1500年にポルトガルの船隊がブラジルを“発見”して領有を宣言し、植民政策を行った。1807年、ナポレオンのポルトガル侵略により、王室と政府機構はブラジルへ移転し、首都をリオデジャネイロに定めた。ナポレオンの失脚によってドン・ジョアン6世と政府はポルトガルに戻る(1821年)。次の年、ブラジルはドン・ペドロ王子のもとに独立。この王制が1889年に廃止され、共和国となるのだが、こうした19世紀のブラジルとポルトガルに対して英国は、強大な海軍力を背景に大きな力を持ち、ブラジルの経済界にも進出していた。ついでながらサンパウロは、このころコーヒー経済の中心。ときの共和国大統領ブルデン・モライス(1894-1898)も、この地の出身だった。
近隣のアルゼンチンやウルグアイに比べ、あるいは極東の日本などに比べてもサッカー導入の遅れたブラジルだが、広まるのは早い。
1895年、リオデジャネイロのフラメンゴ・レガッタ・クラブにもサッカーチームが生まれ、1898年にはサンパウロのマッケンジー・カレッジに最初のブラジル人のチームが結成される。
何事にも対抗意識の強いリオとサンパウロの試合が行われたのが1901年。この年サンパウロに地域リーグが5クラブの参加によってスタートし、4年後、リオにもリーグ(6クラブ)が結成される。さらにサンパウロの南西820キロ、ブラジル南部の牧高地帯の中心地ポルト・アレグレにも1903年にグレミオ・クラブが生まれた。
1912年(大正元年)になると、サンパウロの西北4000キロ、マナウスにクラブ・ジ・マナウスが、1919年(大正8年)にはマナウスの西2500キロ、ボリビア国境に近いリオ・ブランコにもクラブが生まれ、南の温帯地域から北の赤道、アマゾンに至る広大なブラジル全土に広まってゆく。
国際交流は1906年に南アフリカから選抜チームが訪れたのを手はじめに、アルゼンチン選抜が1908年にサンパウロ選抜、リオ選抜と対戦(アルゼンチンの2勝)。英国からアマチュアのコリンシアンが1910年の南米ツアーで立ち寄り、ウルグアイも1911年にサンパウロを訪れている。
国内での広がりや国外からの刺激でブラジル・スポーツ連盟(FBS)が生まれて、スポーツの統轄団体として発足したのが1914年(大正3年)。同じ年にブラジル・オリンピック委員会(CON)が誕生する。
この第一次大戦の始まった1914年はブラジル・サッカーには記念すべき年だ。
英国のエクゼターシティFCを迎え撃って初のブラジル選抜が編成され、2-0で勝ったこと。さらにブエノスアイレスで南米の“先輩”アルゼンチンに1-0で勝ったのだ。
そしてこの2年後、FBSとCONはFBSの旗印のもとに合体。FIFA(国際サッカー連盟)はこのFBSをブラジルの地域統轄団体として認めた(本承認は1923年)。