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1959年アジアユース「過酷なスケジュールをこなし、堂々3位入賞」

 日本の第1戦の相手はシンガポール。18日に開会式があって、その直後の試合にマレーシアがセイロンを12-0で撃破した。

 照明下の試合はスピーディに見えるものだが、それさえもほとんど見たことのない我がユースたちは、マレーシアのあまりに速いプレーに興奮し、宿舎に帰ってからもショックを受けていたようだった。

 だが、対シンガポール戦で生まれて初めて芝生の上で戦った日本チームも、ナイターで、しかも大観衆に囲まれての試合だったにも関わらず、監督や私も驚くほどの好プレーで4-0で勝利を得た。桑田の右からの目の覚めるようなミドルシュートで先攻し、メキシコ五輪のチャンスメーカーとなった杉山の、ドリブルシュートで2-0としてからチームは落ち着き、杉山の3点目、田村文の4点目が決まって大きく差をつけた。
外側へボールを出そうと言う高橋監督の指示がうまくいったのだが、この日本のすばらしいプレーに、開催国として優勝を狙うマレーシアはずいぶん驚き、警戒を強めた。
組み分け試合に勝った日本、マレーシア、韓国、香港がA、敗れたセイロン、フィリピン、ビルマ、シンガポールがBとなりA組がそのまま上位リーグと決められたが、日本は韓国、マレーシアと連日当たるという日程になった。

 その21日の韓国戦は、前半の15分間に3点を奪われ、2-3まで追い上げたが、あと1点が奪えず敗れてしまった。韓国チーム特有の日本に対する激しい闘志と、年齢は若いが試合のかけ引きの上手さで、日本ユースを上回っていた。

 22日の対マレーシア戦は、始めのうちスイーパーを置く守備が成功していたが、カットできるはずの相手のパスが水溜まりで止ったのが致命的になり、これで1点を奪われ、次いでPKで2点目を取られてから大差がついた。

 本来ならここで落ち込むところを最終戦の対香港では6-2で勝ち、3位を確保した。全員の頑張りと、大学の入学手続きなどで参加が遅れていた田村公一が、チームに合流し、戦力に加わったことも大きかった。

 この試合中、GK片伯部が左足を捻挫し、運び出される間の空白の時間が、あと1点差に追い上げていた香港の気勢をくじく結果となり、浮き足だった日本ユースを落ち着かせたのだった。

 大会終了後、チームはマラッカ、シンガポール、バンコクをまわって、それぞれで親善試合をした。マラッカでは社会人と、残り2試合はユースと戦い、全敗に終わったが、波乱に富んだ初体験をへて、チームが5月6日に帰国した時、彼らはずいぶんたくましく見えた。

 彼らと彼らに続く第2回、第3回の体験者たちが、東京、メキシコ・オリンピックの代表として、この後の日本サッカー界の10年を支えてくれることになるのだが、それについてはまた別の機会に―――。


(ジェイレブ JUL.1993)

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