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日本サッカー界を改革した外国人伝道師デットマール・クラマーの来日

「日本選手はヤマトダマシイ(大和魂)を持ってもらいたい」

「わたしが、このチョップスティック(箸・ハシ)を上手に使えるようになるのと、キミたちがボールを上手に扱えるようになるのと、どちらが早いか、競争しよう」
「よい結果を得ようとするためには、よい準備が必要だ」
「試合終了のホイッスルは、次の試合に向っての合図でもある」

 デットマール・クラマーという1925年生まれのドイツ人が1960年代の日本サッカーに大きな変革をもたらし、長沼健、岡野俊一郎、平木隆三をはじめ多くの指導者やプレーヤーを育てたことは記憶に新しい。
小柄で鋭い目をしたこのサッカー伝道師の活動範囲は驚くほど広く、多岐にわたり、その目標はあくまで高きにあった。

 冒頭に掲げた彼の言葉は、彼の弟子ともいえる60年代の日本代表たちには忘れることのできない「クラマー語録」の中のいくつかだが、その言葉を口にしたときの情況や、口調を思い出すたび、そのタイミングのよさをいまさらながら感嘆する。

 私が彼に会ったのは1960年秋に来日した直後、最初のプレスコンファランス(記者会見)だった。

 マイクの前に立った彼は、テーブルに置かれたビン入りのジュースを見て「このジュースは自然のものでなく、水と粉と甘味料を混ぜたにすぎず、体にはまったくプラスにはならない。サッカーの上達をめざすものは、コーチも選手も、こうした飲みものをはじめ自分の身体や、コンディションに気をつけ節制しなければならない」と、スピーチの頭に語って自らの姿勢を示し、それから彼の日本での仕事について話したのを覚えている。

 そのころの日本サッカーは、1956年のメルボルン・オリンピックでは予選を突破しながら1回戦で敗退。1958年の東京での第3回アジア大会で1次リーグ敗退、ローマ・オリンピック(1960年)の前年12月に行なわれたアジア予選第1組でも韓国に敗れ、出ると負けの状態だった。東京オリンピック(64年)のホスト国として全競技の選手団が華やかにローマに向かうときにも、サッカーだけはカヤの外だった。
しかし、日本協会はこれを機会に"東京"に向けての長期計画を立てることにした。幸い強化費も、これまで以上に、潤沢になり、海外遠征で経験を積むこと、外人プロ・コーチを招くことなどが決まった。夏の欧州遠征で選手たちは、西ドイツのデュイスブルクのすばらしいスポーツ・シューレ(トレーニング・センター)でクラマーの指導を受けた。

 実際に自分でプレーの手本を示して基礎技術から戦術までを教えるクラマーに選手たちは、ぐいぐい引きよせられ、その人柄にホレこんだ日本協会会長の野津謙(のづ・ゆずる=故人)さんが、DFB(西ドイツ・サッカー協会)に懇請しての来日となったのだった。


(ジェイレブ AUG.1993)

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