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クラマーの指導「ボール扱いは第一の関門」

 1960年10月から1ヶ月半、彼は、日本代表の強化を図り、11月6日、ソウルでのW杯チリ大会アジア予選での対韓国戦にのぞむ日本代表を指導した。代表のコーチだけでなく、各地を巡回して指導者に教え、若い選手たちに基礎技術をコーチした。前述の"ヤマトダマシイ"もソウルで「プロとアマほど違う」韓国に敗れた後、勝とうとする意志力を強調したときの言葉だった。

 次の年1961年の5月から約1年、クラマーは再来日して、再び代表チームの強化、若い選手のコーチ、指導者の講習―――とみっちりと詰ったスケジュールに挑む。
京都の講習会で高校二年生の釜本邦茂を見たのも、このときだった。

 釜本は、小柄なクラマーさんのヘディングのボールが、大柄な自分のヘディングより、ずっと強く、正確にとぶのに驚かされた―――と回想している。当時36歳の彼は、身体が締っていて基本技術の模範を示すときのフォームが美しかった。
ドイツではスポーツ記者の間で「スコラー(学者)」とアダ名されていたほど、試合の分析やその説明は総論、各論と綿密で、それでいてユーモアを交えた話しぶりは、聞くものを飽かさなかったし、少年たちの練習などでは、とかく散漫になる子供の注意を、自分に集め、彼の一挙手一投足に視線を注がせるところは、まさに"指導の芸術"の趣きだった。

 「ボール扱いは第一の関門」と代表選手たちにも基礎技術のキック、ストップからやり直した。私は今でも、高校を出たばかりで代表候補チームにはいった杉山隆一(三菱-ヤマハ監督)に、クラマーがつきっきりで、後方からのボールの受け方の練習していたのを思い出す。彼のその後の活躍、メキシコの銅メダルのもととなった釜本へのパスの供給も、このときのトラッピングの反復練習が大きな要素だった。あまりの基礎の反復に「これくらいのことは知っている」と思った選手もあり、「外国からわざわざ来て、基礎技術か」などという人もいたが、彼の頑固とも見える方針の堅持はしだいに理解され、効果が見えるようになった。その成果については別の機会に譲るが、現在の盛況を喜びながら、私はクラマーと彼の弟子たちの30年の積み重ねをいつも思うのだ。


(ジェイレブ AUG.1993)

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