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1964年東京オリンピック「7ヵ月間の合同トレーニング」

 1964年10月に行なわれた東京オリンピックは、日本にとって国家というレベルでも、スポーツ界というレベルでも、今日につながる大事業だった。ローマ五輪(1960年)で無念の予選敗退を喫してから、ひたすら"東京"を目指し、努力と総力を結集したバックアップによって日本サッカー界にも貴重な1勝をあげ、次代への足がかりをつかんだ。

 東京オリンピックで日本代表は開催国として地域予選なしで出場できるが、それだけにホスト・カントリーとして恥ずかしくない成績を収めなければならない―――。ローマ五輪(1960年)の予選敗退から、日本協会は、ひたすら"東京"を目指して努力を重ねた。

 強化策は1964年10月の大会に焦点をあて、そこから逆算して計画された。基本的な構想は、各個人とそれによって構成されたチームがともに国際水準に達すること。このため、海外遠征や国内合宿をどしどし行なうようになった。

 1963年に代表Aチームがヨーロッパ、代表Bがソ連へと2チームが同時に海外へ出るようになったのも、それまでには考えられなかったこと。Aチームは帰国後、マレーシアのムルデカ大会で2位となり、秋には来日した西ドイツのアマチュア代表と1勝1分け、京都での1勝は4-1の完勝。アジアでも中位以下だったのが確実にトップ級にあがり、西欧のアマチュア代表に勝つまでに成長した。

 大会の年、1964年、それまでBチームにいた釜本の加わったAが、冬に東南アジアに遠征。4月〜6月までの3ヵ月間、検見川での合宿練習が行なわれた。合宿所から社会人は通勤、学生は通学の後トレーニングをし、基礎体力、基礎プレーを反復した。
その夏から秋へのソ連欧州遠征の最終戦でスイスの名門クラブ、グラスホッパーと対戦して4-0で完勝。FWから始まる守備、GKから始まる攻撃といった、全員による攻撃、全員による守備がチーム内に浸透し攻守の切り替えの早さで欧州の中クラスのクラブを制した。スイス紙に掲載された「この近代的な日本代表に勝てるチームはスイスにあるまい」との賛辞は、彼らにとって何よりもの自信となったろう。
東京オリンピックのサッカーは16チームを4組に分けて、各組内の1次リーグののち、各組上位2チームが準々決勝に進み、準決、決勝へと勝ち上がる方式で、▼A、ドイツ、イラン、メキシコ、ルーマニア ▼ユーゴ、北朝鮮、ハンガリー、モロッコ ▼チェコ、韓国、ブラジル、アラブ連合 ▼C、イタリア、日本、アルゼンチン、ガーナ、……といった組み分けとなったが、D組のイタリアは代表選手のアマ資格が問題にされて参加を取り止め、またB組の北朝鮮はGANEFO(新興国競技大会)に参加した一部の選手が資格を停止されたことで、(来日した)全選手団を引きあげたので、参加国は14に減ってB、Dは3ヵ国だけ。
こうして10月11日から始まった1次リーグ18試合を経て、ベスト8が決定。10月18日から準々決勝以降のKOシステムとなり23日のハンガリー・チェコ(2-1)の決勝へと進んだのだった。


(ジェイレブ SEP.1993)

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