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1964年東京オリンピック「6万人の観客を酔わせたハンガリー対チェコの決勝」

 44万人が実際に試合を見た。それも、W杯には及ばなくても、国際試合でハイレベルなゲームを競技場に足を運んで見てもらったことは、まことに大きなプラスだった。東京五輪の翌々年には東京の中学校で、サッカー部への入部希望者が多いのに対し、野球は9人のチームができないところが増えたという。こうした話もオリンピックの刺激によるものであろう。

 サッカー関係者にとっても、この大会は"干天に慈雨"。※1ドル=360円、外貨持ち出し制限がされていた当時、大戦後の荒廃から回復したと言っても日本はまだ貧しく、外国チーム同士の試合を見るために海外へ出かけるなどということは、夢のまた夢だった。

 それが日本に居ながら、自分の目で見られたのだから……。
アマチュアが原則の当時のオリンピックであっても、東欧社会主義国の五輪代表には次のW杯で西欧、南米のフルタイムプロの各国代表と互角の勝負をしたチームもあった。そうしたレベルのタイトルをかけた試合に接したことは当時の指導者にとって大きな財産となった。

 10月23日、国立競技場で行なわれたハンガリー対チェコの決勝は、ハンガリーがファルカスの右サイドからのドリブル。速いクロスで相手DFの自殺点(オウン・ゴール)を得て1-0、さらにCFベネのドリブルからのシュートで2-0。チェコも左からの攻めを右サイドが生かして1-2とし、最後まで息づまる攻防の末、ハンガリーが優勝した。私にとっても、まことにエキサイティング。6万565人の観客も感銘を受けたと思う。

 中部ヨーロッパ、東方の民マジャール人の、草原を疾走する騎兵の攻撃にも似たスピーディーなハンガリー、スローを基調にしながら"急"を織り込むチェコの展開は、まことに芸術的と言えた。

 5試合で12得点(対モロッコで4得点)を決めて得点王となったベネはこのとき20歳。先制ゴールのファルカスは21歳。彼らは2年後66年のW杯イングランド大会で、ハンガリー代表の攻撃の主力となり、あのペレのブラジルを撃破することになる。

 インタビューのとき、ベネが日本の記者に「100メートルを何秒で走るのか」と聞かれて「100メートルの記録を取ったことはない」と答えた。さらに私が「将来はプスカスのような偉大なゴールゲッターを目指すのか」と聞くと、目を輝かせて「プスカスのような選手になりたい」と小声で言ったが、このときの初々しい表情は今でも忘れられない。

 この東京大会を機に、日本サッカーの歴史の見直しが始まり、新田純興氏を中心に、古い記録の収集や整理が進んだのも、幸いなことだった。海外のスポーツ事情を大会前に多くの新聞記者、放送関係者が取材し、海の外へ出てみればサッカーが最も盛んな競技であることを知ったのも大きな布石となった。だからこそアルゼンチンに対するただ一つの勝利をメディアが評価したと思う。

 "東京"に関わった多くの先輩たちの苦労と、地道な努力に対して私は、今も頭の下がる思いがする。


(ジェイレブ OCT.1993)

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