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多くの困難を乗越えて日本サッカーリーグ開幕

 東京オリンピックの翌年、1965年に開幕した日本サッカーリーグは、プロ野球以外で初の全国リーグという、画期的な企画であった。全国8チームによるホーム&アウェーのリーグ戦は、サッカーの普及と選手の実力アップにつながった。

 今年5月15日のJリーグのオープニング。華やかな光と音のページェントを見ながら"健さん"は涙ぐんでいた。日本サッカー協会の長沼健副会長である。前日に「私が泣くのは日本代表がW杯で勝ったとき」といっていたのだが、30年間、日本サッカー界のリーダーとして走り続けてきたこの人には、込み上げるものを抑えきれなかったに違いない。

 その健さんの姿を眺めながら、私は、28年前の日本リーグの開幕を思ったものだ。

 「日本選手とチームの実力を高めるために、ヨーロッパ各国で行なわれているようなリーグ形式を採用することが必要だ」という提案は、東京オリンピックのために、5か年に渡って指導したデットマル・クラマーの五つの"遺訓"のうちの一つであった。彼は自分の愛弟子ともいうべき、東京オリンピックの代表選手、長沼監督、岡野コーチらと大会後に話し合った後、帰国前のさよならパーティーの席上で、日本協会の野津会長をはじめとする首脳陣や記者たちに次のように強調した。

(1)代表チームは国際試合の経験を積むこと。

(2)コーチを育成すること。

(3)リーグ形式を採用すること。

(4)コーチ制度を確立すること。
(5)芝生のグラウンドを確保すること。
この第3項が後の日本リーグ結成の直接のきっかけとなった。

 それまでのサッカー界では、関東や関西といった地域では、大正末期から大学リーグがあり、また企業チームやクラブチームによる地域の社会人リーグもあったが、日本一を決めるのは天皇杯日本選手権大会というカップ戦であり、全国レベルでのリーグ戦は存在していなかった。したがって、ヨーロッパでいうチャンピオン・シップ(トップ・リーグによる最強チーム決定)とカップ戦(KOシステムによる勝ち上がり戦で優勝を決める)という区分についても多くのスポーツ人はよく理解していなかった。

 こうしたなかでトップレベルのリーグを形成するためには、さまざまな問題を解決していかなければならなかった。まず、企業チームでは(選手はアマチュアだったから)社員である選手が、リーグのためにどれだけ勤務を離れるかが問題であった。

 これは、8チームのホーム&アウェーの場合、年間14試合のうち7試合がアウェーで日曜日の試合となるため、土曜日の勤めを休んだとしても年間7日休むだけですむ。幸いなことに東海道新幹線が東京五輪のときに開通したので、広島や北九州のチームも、日曜の昼に試合をしたあと月曜日には出社できる。

 これまでの天皇杯日本選手権に参加するチームは、集中的に大会のために一週間は休んだのだからそれと比べても、そう変わりない。

 さらに天皇杯は府県予選からでなく、日本リーグチームは予選免除とした。

 次に大学チームをどうするかという問題。東京オリンピック代表選手19人のうち企業チーム所属が13人、大学チーム所属が6人という比率からみても、大学にも強いチームがあるが、これをトップリーグにくわえるべきか―――。

 大学は3月に卒業があって戦力が不安定になること、学校から予算をもらっているので参加は難しい―――と結局企業チームのみで構成することになった。

 地域別に関しては、各地域会場から希望チームの推薦が出され、65年1月に8チームが決定した。

◆ 関東=古河電工、日立本社、三菱重工

◆ 東海=名古屋相互銀行、豊田織機

◆ 中国=東洋工業(現・マツダ)

◆ 九州=八幡製鉄(現・新日鉄)


(ジェイレブ NOV.1993)

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