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日本サッカーリーグ、東洋工業が初代チャンピオン

 多くの問題を解決して推進者たちは65年5月21日に第1回評議員会を開いて正式に発足し、6月6日にリーグをスタートさせた。

開幕試合は

▼東京・駒沢競技場
 日立本社 6-1 名相銀
 古河電工 5-0 三菱重工

▼刈谷・市営球場
 東洋工業 2-0 豊田織機

▼大阪・うつぼ公園
 八幡製鉄 1-0 ヤンマー

 の4試合で、第44回天皇杯(64年1月)の決勝で引分け、ともに優勝となった古河電工と八幡製鉄が勝ったのをはじめ、東洋工業、日立本社など、これまで実業団大会で実績のあるチームが初戦を飾った。

 駒沢会場の観衆は4500人、刈谷でも、大阪でも、2700、2300人が集まった。今のJリーグの観客動員に比べると一桁少ないが、当時としては予想以上の入場者数である。スタンドの賑やかさでプレーヤーも張り切って、懸命なプレーに勝敗にかかわらず会場は沸いた。

 東京オリンピックという大きな仕事を成し遂げたあと、スポーツ界は一種の虚脱状態であった。女子バレーボールの金メダルという快挙はあったものの、陸上も水泳も、お家芸の柔道も敗れ、全体に沈滞ムードだった。そのような中でのサッカーの新しい活動は、マスメディアにとっても好意的に受けられ、各新聞は日本リーグの報道に大きなスペースを割いたため、人気は上昇し入場料収入も予想以上となった。7月4日までの第5週を前期とし、9月12日からの第6週以降を後期として11月7日に終了した。

 この年の優勝は東洋工業であった。14試合12勝2引分け、勝点26、総得点44、失点9。2位は八幡、3位古河、4位日立、以下、三菱、豊田、ヤンマーと名相銀の順となった。5位以下と上位4チームとの間に力の差はあったものの、リーグ効果は東洋工業という新しい実力チームを生み、このチームの打倒を目標にリーグはさらにレベルアップした。

 その東洋工業のホーム会場が高校のグラウンドであったことが、当時のサッカー環境を表しているが、ともかく長沼健、岡野俊一郎(現・日本協会副会長)をはじめとするグループによって、日本サッカーの新しい時代が始まったのだった。


(ジェイレブ NOV.1993)

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