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1966年第5回アジア大会「疲労の極致での戦い」

 東京オリンピックで対アルゼンチン戦に逆転勝ちした翌年、日本リーグを発足させたサッカー界は、66年12月の第5回アジア競技大会に、アジアの王座をめざして長沼健監督、岡野俊一郎コーチと18人の選手を送りこんだ。結果は3位、銅メダルだったが、日本代表の実力とフェアな試合ぶりはアジア随一と評価された。

 "アジア大会はボールゲームの大会"というのは第2回大会の日本選手団団長田畑政治氏の言葉。なかでもサッカーはアジア競技連盟に加盟している国々のほとんどでナンバーワンの人気スポーツだ。

 第5回大会の開催地バンコクも例外でなく、そのため、大会の収入はサッカーの試合に大きく依存することになる。

 1966年12月10日から20日までの11日間の大会でサッカーが優勝まで7試合、準決勝まで9日間に6試合という超ハードなスケジュールとなったのは、すべて、このため。参加11か国を3組(3〜4チーム)に分けて、一次リーグを行ない、各組上位2チームずつの6チームが再びA、B、2組(3チームずつ)の二次リーグで、上位2チームを選び、ここから準決勝、決勝という仕組みだった。

 12月のバンコクは平年ならば乾季で、土地の人には肌寒いくらいの25度〜26度くらいの気温のハズが、この年は雨が多く大会中に6度も降り、しかも日中は40度まで気温が上がった。日本を出発するときは例年より冷えこんで降雪もあったほどで、私たち取材する記者たちにも暑さはこたえたから、連戦の選手たちは大変だったろう。

一次リーグB組での日本の戦績
▽12月10日 2-1 インド
▽12月11日 3-1 イラン
▽ 12月14日 1-0 マレーシア

 第1、第4回優勝のインドを破りラフプレーのイランを下し、スピードと足技のマレーシアも退けて3戦全勝の日本だったが、イラン戦で主将でMFの八重樫がファウル・タックルで傷ついて、以後の試合に出られなくなった。

二次リーグでの日本の戦績
▽12月16日 5-0 シンガポール
▽12月17日 5-1 タイ

 左右に大きくボールを動かし、外からの攻めと、中央突破の両方のできる日本の攻撃に、シンガポールもタイも防ぎようがなかった。釜本は二次リーグで4得点、一次と合わせると6ゴール。

[準決勝]
▽12月18日 0-1 イラン

 3日連戦の最後の相手は再びイラン。相手も16日にインドネシア(1-0)、17日にビルマ(0-1)と連戦(1勝1敗)しているが、日本ほどは疲れていないように見えた。日本の4・2・4フォーメーションの最も運動量の必要な2人のMFは、発熱の宮本輝と限度いっぱいの小城。一次リーグとは逆にイランの動きが目立つ試合。七つとも勝って優勝しようという日本の意気も、6試合目についに疲労のためにダウンした。

[3位決定戦]
▽12月19日 2-0 シンガポール

 二次リーグで大勝したシンガポールが相手であっても、動きの鈍い日本はパスがまわらず前半は0-0。後半になって杉山のドリブルからのパスを木村が決めて1-0、終了直前に釜本のシュートでようやく2-0とし、3位を確保した。

 次の日に行なわれた決勝は、ビルマがイランを1-0で破って初優勝したが、既に体力を使い果たした両チームは見ていて気の毒になるような試合ぶりだった。


(ジェイレブ DEC.1993)

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