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黒人、混血プレーヤーの進出

 日本の23倍、ロシアを除くヨーロッパに等しい広大な国土のブラジルは、その広さとともに多様な人種、さまざまな民族が混合していることが大きな特色となっている。
 原住のインディオの土地にポルトガル人の移住が始まり、やがて欧州の各地から移民がやってくる。さらに、アフリカから黒人が奴隷として移入され、ポルトガル語という一つの言語を使用しながら、人種の“るつぼ”といわれる特異な社会を生み出した。
 すでに1888年に奴隷解放があり、これが王制廃止、共和国成立にまで及ぶのだが、制度としての差別はなくなっても、第1次大戦まで黒人やインディオと、それらとの混血は社会的な差別を受けていた。
 スポーツ・クラブでも例外でなく、レガッタや競馬クラブなどのハイソサエティの集まるところはもちろん、サッカーのような大衆的スポーツ・クラブでも、黒人、インディオを受け入れるところはなかった。
 1909年にゲルマニアFC(サンパウロ)に登場したアルトール・フリーデンライヒ選手はインディオとの混血(名前からみてドイツ系)で、彼の芸術的なプレーは多くのファンに高い評価を受けたのだが、黒人プレーヤーの導入でチームの白人選手が去ってしまうアメリカFC(リオ)などの例もあった。
 そうした風潮のなか、リオのパスコ・ダ・ガマが1910年ごろから黒人を受け入れ、リオ・リーグ2部から1部へ昇格、1923年に優勝した。チームの半数がノン・ホワイトだったこのチームは、ブラジル・サッカーの多人種混合時代への大きなステップとなった。

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