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1966年第5回アジア大会「驚異的なタイのサッカーの人気」

 新聞社の特派記者として大会を取材した私は、まずバンコクが近代化されホテルが快適なエアコンディションなのに驚かされた。大会会場の国立競技場は、ゴール裏にスタンドを増設して3万5000人収容とし、昼は陸上競技、夜は(照明下に)サッカーに使った。サッカー用には、もう一面チュラロンコン大学の競技場(2万人収容)が使われた。昼には閑散としている競技場が、夜のサッカーの試合のときには続々と人が詰めかけるのに、日本から来た各社の記者たちは驚きの目をみはった。

 前年にスタートした日本リーグが人気を呼び、国際試合や東西対抗には2万の観客が集まるようになって"サッカーブーム"などという言葉が新聞にあらわれていたが、その日本や東京に比べてケタ違いに人口の少ないタイのバンコクで、3万5000人収容の所へ超満員の観衆が押しかけ、圧死者や重傷者が出るというサッカー熱を、どう表現するのかと迷ったものだ。

 アジア大会用に設けられ、のちに公務員住宅になるという選手村は清潔で悪くはなかったが、部屋に冷房はなく、負傷の八重樫選手を見舞い、汗をかきながら、ただベッドに横たわっている姿を見たとき、一日だけでもホテルの涼しい部屋で休ませたいと思った。同じ条件であっても、ベトナムやインドネシアの選手たちは、日中は戸外に出て高床式の家の下に置いたイスやゴザの上で涼んでいた。

 休んでいる時間が決して快適な休みでない日本人選手と、この地域で育っている選手とのハンディキャップの大きさを改めて感じたものだ。

 そんな中で日本代表は立派に試合をした。大会を視察したFIFAのスタンレー・ラウス会長は「日本が銅メダルにとどまったのは大会のスケジュールが過酷だったからで、そうでなければ優勝していただろう。準決勝での試合は、ほとんどサッカーと言えないほどだった。日本はスポーツマンシップがあり、審判に対する態度もよかった」と語っている。

 長沼監督は「日本は体格とスタミナではアジアの中ではもはや心配はない。しかし、もっとボールコントロールの技術を高め、そのうえにチームプレーができるようにしたい」とレポートで述べている。

 私は、この大会で釜本がまだトラッピングなどのボール扱いは荒削りだが、シュートとヘディングの強さという点では、東京オリンピックのころより進歩していることを知った。大学リーグという日本リーグよりレベルの低いところで試合をしていても、日本代表に入っての国際舞台での緊張感が彼の素質を少しずつ伸ばしているように見えた。


(ジェイレブ DEC.1993)

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