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1967年メキシコ・オリンピック予選「韓国との壮絶な点の取り合い」

 私たちが"体育の日"と呼ぶ10月10日は、1964年の東京五輪開催を記念して、その開会式当日を、国民の祝祭日の一つとしたものだが、サッカーファンにも、メキシコ五輪のアジア第一組予選に勝って代表となった晴れの日だった。この年、1967年9年27日から10月10日までの2週間を振り返る。

 メキシコ五輪の地域予選に64カ国が参加し、アジアの申込み18カ国は3組に分かれ、日本の入った第1組の予選は秋の東京で開催することが決まった。前年12月の第5回アジア大会で暑熱の下に10日間7試合の過酷なスケジュールで優勝を逃した(3位)日本にとって、参加チームの航空運賃を負担するという出費はあっても、是非ともホームグラウンドで戦い、メキシコへの切符を手にしたかったのである。

 開幕試合の対フィリピン戦での15-0という大差による勝利は、そうした日本の強い意欲の表われだった。

 第2戦の相手は台湾、当時は中華民国としてオリンピックに参加。サッカーは香港の選手でチームを作り、第1回、第2回のアジア大会に優勝、1960年のローマ五輪にもアジア代表として出場した実績を持っていたが、日本は前半27分に釜本のシュートで1-0。前半終了間際に、相手FBが反則で退場処分を受けて、10人となったこともあり、後半に3点を加えて4-0で勝った。

 第3戦のレバノンも3-1で退けたが、杉山が悪質なファウルで倒れたときに左肩を脱臼し、以後の試合は包帯、痛み止めの注射が必要となる。

 こうして3戦全勝の日本は10月7日、こちらも3勝と波に乗る韓国と対決することになった。

 天気は朝から雨、午後5時半からの中国対ベトナムに続いての第2試合には有料入場者4万5,789人、当日売りの切符を販売するための小屋が、人の列に押されて倒れるという事故もあった。

 日の丸の大声援を背に、日本は前半13分に宮本輝紀のシュート、37分に杉山のドリブルシュートで2-0とリードした。1点目は右からの釜本のクロスを八重樫がヘディングで中央へ落とし、そのボレーを宮本が蹴ったもの。2点目は小城からの縦パスを、肩に痛み止め注射をした杉山のスピード突破によるものだった。

 そして前半終了直前に3点目の絶好機が訪れる。右からのパスが韓国ゴール前を通り、八重樫が走りこんだとき、ゴールは誰も守っていなかったのだ。ところが荒れたグラウンドでイレギュラーし、ボールは八重樫の左足のスネに当たって外へ出てしまった。

 後半は韓国が猛反撃した。パスでつなごうとした前半のやり方を変え、ロングパスを送って走り、動きまわって、日本DFのクリアボールを拾う、という単純で力を前面に押したてた戦法になった。後半6分に左からのボールがストライカー李会沢にわたり、李が日本DFをかわしてシュート。2-1。勢いづいて、後半14分にはFKから許がヘディングで2-2の同点とした。

 スタンドの韓国サポーターが躍りあがった直後、1分後に、日本が釜本のシュートで3点目。日の丸が揺れる。しかし韓国側が沈黙したのは、2分間だけ。金基福のシュートが入って後半27分に再び3-3となった。

 両チームのボールの奪い合いは激しく、ゴールに迫る姿は悲壮でさえもあった。44分に丁炳卓のシュートがバーを叩き、日本側はヒヤリとしたが、ついに引き分けに終わる。


(ジェイレブ JAN.1994)

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