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1967年メキシコ・オリンピック予選「日本を救った杉山のシュート」

 この時点で、日韓はともに3勝1分、得失点差は日本21、韓国7。韓国がフィリピンから日本と同じ15点を取れば、日本はベトナムに2点差をつけて勝たなければならない。

 それについて質問を受けた韓国側は、「フィリピンから5分に1点のペースで18点をもぎ取る」と答えた。しかしそれは、日本と互角の韓国が、フィリピンから日本と同じように大量点をあげられるはずという、きわめて算術的で、スポーツをする人間の心を読まない計算だった。

 ベトナム(0-10)にもレバノン(1-11)、中国(2-7)にも、力の差で押しこまれてもフィリピンは1点でも取ろうと攻撃に出ようとする姿勢を崩さなかったのが、「18点」のコメントに反発し、10月9日の対韓国戦はこれまでとがらりと変えて全員が守りにつく戦法を採った。

 オープンスペースを走力を生かして疾走する韓国も、狭いゴール前に10人が密集し、捨身で守る相手をかわして得点を重ねることは難しい。90分間、攻め続け、50本のシュートを浴びせて5-0に終わった。日本との得失点差の開きは依然として9。

 日本はベトナム戦に勝つだけとなった。

 ベトナムの選手は体格は大きくないが、敏捷で、バネがあり、東南アジアでは、一時期ベトナム陸軍クラブが無敗を誇ったこともあった。

 10月10日、午後7時30分キックオフの対ベトナム戦での日本チームは"勝ちさえすればよい"のに"勝たなければ"というプレッシャーを負ってしまい、スタンドから見ていても、選手たちが固くなっているのがわかった。逆にベトナムの方が伸び伸びとプレーし、前半は0-0.相手の攻めに対して、リベロ(スイーパー)に鎌田を置く守りでしのいだが、攻めはシュートが決まらず、また釜本のヘディングも必ず取れるというわけではない。小城がヘディングの競り合いで倒れ、手当ての後に復帰したがアゴを骨折する重傷を負った。

 後半開始早々のチャンス、釜本のシュートを防がれたが、5分に、ゴールキックがミスキックとなり、杉山に直接渡る。ハーフライン近く左側で取った彼は、独特の動物的なカンで、そのまま一気にゴールへ突っかけ、DFをかわし、飛び出してきたGKラム・ホン・チャウともつれて倒れた瞬間、ツマ先で突っつくようにして蹴ったボールがゴールに転がりこんだ。左肩脱臼の負傷を注射で押さえた杉山の殊勲のゴール。ベトナムのトラン・ミン・マン監督は「バックスのただ一つのミスを得点された」と語った。

 この後にも日本は勢いに乗れず、ベトナムの反撃が鋭く見えてスタンドのサポーターもテレビの前のファンもヒヤリとする場面もあったが、長い後半を終わって1-0。メキシコへの切符をついに手にした。

 選手たちは、日の丸を掲げて場内を一周。スタンドから少年ファンも飛び込んで、ともに走り、紙テープが舞って、まさに最良の体育の日となった。

 長沼監督、岡野コーチ(ともに現日本協会副会長)と選手たちが、東京五輪以来重ねた努力がメキシコで花開くのは、これから1年後のことである。


(ジェイレブ JAN.1994)

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