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メキシコ五輪出場に向けての海外遠征

 前年のアジア地域予選を突破して、この年10月のメキシコ五輪の出場権を獲得した日本代表チームは、1月に西ドイツのアマチュア選抜と試合をし、3月にはメキシコへ飛んで現地での試合で"高地"を経験し、オーストラリアへと回って、日本の真南に新しいサッカーゾーンが生まれるのを知った。メキシコへの道程は、夏の欧州遠征と、その後の国内合宿が予定されていた。

 65年にスタートした日本リーグは4年目に入り、チャンピオン東洋工業に対する杉山隆一の三菱、釜本のヤンマー、鎌田や宮本征勝の古河、宮本輝紀、渡辺の新日鉄のチャレンジが人気を呼び、日本サッカーもまた上昇期にあって、日本代表も進歩。メキシコ五輪でのベスト8、あわよくばベスト4進出が心に秘めた目標だった。

 その強化の一環として、世界のトッププロを招くことが当時のアマチュアリズムの厳しい日本スポーツ界で認められ、100年の伝統を持つプロチーム、アーセナルとの対戦が実現したのだった。

 アーセナルは1930年代に黄金期を迎え、日本の古いサッカー人には、そのCFデビッド・ジャックや、監督チャップマンと、彼が編み出した3FB(スリーフルバック)システムなどは、彼らの指導書とともに手さぐりで勉強した人たちには忘れ得ない"師匠"であり、前年のリーグ8位からやがて迎える黄金期に向かう、イングランドで当時最も勢いのあるチームだった。

 彼らとのシリーズは福岡の小さなスタンドを満員にして合計10万人を集め、また日本の指導者に、ゴールをめざすシンプルなサッカーを深い感銘とともに残したのだった。

 そしてまた、この3連戦の何よりの収穫は、日本の各選手が力で劣っても各局面でのボールの奪い合いに互角の気迫で対抗したこと、"大器"釜本のヘディングやドリブルやシュートが一流のプロを相手に充分に通じること、この年の1月〜3月までの西ドイツ留学の成果であるトラッピングからシュートへかかる速さや相手との競り合いの強さが、試され、確認されたことだった。

 主将でCFBのテリー・ネールは釜本について「彼のようなCFが日本にいたとは―――」と驚きの言葉を残した。メキシコへの希望は少しずつふくらんでいた。


(ジェイレブ FEB.1994)

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