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1968年メキシコ・オリンピック「歴史は作られた」

 1968年10月のメキシコ五輪で日本は3位に入賞、アジアのチームとしてサッカーで初のメダルを獲得した。以来四半世紀、アジアはまだ"銅"を越えていない。その2週間での6試合は一つ一つ歴史に残るが、第1戦の対ナイジェリア(10月14日)は、日本サッカーの"自信作"が初めて世界の舞台で披露された日だった。

 第19回オリンピック・メキシコ大会は1968年10月12日から27日までメキシコ・シティを中心に、112カ国、5530人が参加して行なわれた。

 アジアではベトナム戦争が続き、アメリカでは4月に黒人運動のキング牧師が銃弾に倒れ、欧州ではチェコの自由化を阻止するためソ連の軍隊が同国に進軍して制圧(8月)するなど、世界は多くの問題を抱えていたが、ラテン・アメリカでの初の大会は、これまで最高の参加国を集める大盛況となった。開催地が2240メートルの高地にあるのが大会の特色で、気圧が低く、陸上競技の短距離やジャンプでは大記録が生まれたが、酸素が希薄なため長距離などの記録は低調だった。

 サッカーは16カ国で争われ、まず4組に分かれて一次リーグを行ない、各組の上位チーム、合計8チームがKOシステムで準々決勝から決勝へ勝ちあがる方式だった。

 80ヶ国がエントリーした予選(うち16カ国が棄権)は2年がかりで、欧州4(チェコスロバキア、ブルガリア、フランス、スペイン)、アフリカ3(ギニア、ナイジェリア、ガーナ)、中北米2(グアテマラ、エルサルバドル)、アジア3(日本、タイ、イスラエル)、南米2(ブラジル、コロンビア)の14代表が決まり、前回優勝国ハンガリーと開催国メキシコとともに、アステカ・スタジアム(メキシコ・シティ)、プエブラ・スタジアム(プエブラ市)、ハリスコ・スタジアム(グワダラハラ市)、レオン・スタジアム(レオン市)の4都市4会場で1次(グループ)リーグを戦った。

 グループ・リーグは13日(現地時間)に始まった。B組の日本は10月14日の第1戦(対ナイジェリア)に3-1で勝ち、16日の第2戦にブラジルと1-1で引き分け、第3戦(18日)のスペイン戦も0-0で引き分けて1勝2分け、得点4、失点1で、この組の2位となり、1位スペイン(2勝1分、得点4、失点0)とともにベスト8に入った。10月20日の準々決勝でフランスを3-1で倒し、2日後の準決勝はハンガリーに屈したが、24日(現地時間)の3位決定戦でメキシコを破って3位入賞を果たした。

 この2週間の6試合の一つ一つは、世界のサッカー界に強い衝撃を与え、サッカーの歴史に新しいページを書き加えるものだった。


(ジェイレブ MAR.1994)

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