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1968年メキシコ・オリンピック「第1戦・対ナイジェリア」

 14日の第1戦はメキシコ・シティの南方115キロにあるプエブラ(高度2162メートル)で行なわれた。

 トーナメントの第1戦の重要さは昨年のカタール(W杯アジア最終予選)でも語られたが、特に1次リーグは3試合。勝点(1勝が2)4をあげれば、まず上位2チームに入って準決勝へ出られるのだから、対ナイジェリア戦で勝てば勝点2となって、まず目標の半分を達成することになる。しかし、もし負けてしまえば、あと2試合をすべて勝たなければならないという追いこまれた状況になるから、悪くても引き分けにしておきたかった。

 ナイジェリアの戦術や一人一人の特徴など、監督とコーチが得た情報から「(1)万全の守備をすること。そのため、スイーパー(リベロ)に鎌田を置く。彼の重点はあくまで守備とする。またナイジェリアのトップ3人には密着マークで対抗する。(2)攻撃は、相手の浅い直線的な4FBラインを破るためのスルーパスを出し、杉山、松本の両翼が突破する。釜本はシュートチャンスを見出すことに全力を出す」といった作戦がたてられた。

 午後3時30分キックオフ、日本は24分に釜本のヘディングで先制した。左タッチラインで杉山がキープし、その前方のスペースへ八重樫が走って杉山からのパスを受け、中へ切れこむと見せて左足でカーブのクロスを送ると釜本の頭にピタリと合った。しかし、その9分後、ナイジェリアは左サイドのキープから、右へ出たボールをオショーデがドリブルシュートして同点とした。トップの3人をマークしながら、MFの上がりへの対応が遅れたと岡野コーチは反省したが、五分五分の形勢から、後半28分(73分)に日本がリードする。

 ペナルティエリア左外側でのFKから、タテに出た杉山に合わせ、杉山からのグラウンダーのパスを釜本の左足がゴール右隅へ決めた。

 1点目の釜本のヘディングで、彼の頭を警戒した相手DFのウラをかいた八重樫のFKと杉山の瞬間的な速さとパスの正確さが、釜本のシュートに結びついたのだった。

 八重樫が足首を痛めて桑原と交代し、彼をCF役に、釜本を下がり目のポジションに配したが、日本のDF陣は安定して破錠はなかった。タイムアップ直前に相手GKのミスキックを拾った釜本が、右寄り35メートルからのロングシュートをゴール左上隅に決めた。

 3-1。日本にとってオリンピック本大会の勝利は1936年ベルリンの対スウェーデン(3-2)、64年東京の対アルゼンチン(3-2)についで3度目。東京大会も10月14日だから、日本サッカーにまことに縁起のよい日だが、この10月14日に到るまで"東京"以後の4年間の長期計画、70試合に及ぶ国際試合と、綿密な高地対策などが初戦に凝縮されたと言える。特にメルボルン(1956年)以来、3度目の五輪出場の八重樫はこの試合の負傷で戦列を離れるが、35歳の彼の経験がアフリカの強豪相手にも見事に発揮されたのだった。30歳のスイーパー鎌田が前半15分ごろに競り合いで転倒して右ヒジ関節を脱臼したが、自分で入れて、ハーフタイムに鈴木ドクターの麻酔注射で痛みを止めて戦い抜いたのも、彼自身とこのチーム全員の気迫を示すエピソードと言える。

 メキシコ五輪、グループリーグ突破の道は、50%開けたのだった。


(ジェイレブ MAR.1994)

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