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1968年メキシコ・オリンピック「男たちが燃焼し尽くしたメキシコ五輪」

 「カマモトはどうしていますか」「68年のチームはすばらしかった」―――1980年のヨーロッパ選手権取材のとき、私はローマの空港でアンリ・ミッシェルに話しかけられた。メキシコ五輪のフランス代表、のちにプロでも活躍した彼は、12年前の対戦相手、日本チームに対して、いまも敬意を持っていると語ってくれたのだった。

 1968年10月24日午後5時30分(メキシコ時間)日本対メキシコの3位決定戦が終わったあと、日本の特派員たちは大忙しだった。プレスルームでインタビューし、日本へ送稿し……、そんな記者のひとり遠山靖三は、大阪のスポーツ紙のデスクをしていた私からの依頼で、原稿もそこそこに、選手村へ飛んで行った。

 この日のチームの全得点を決めた釜本に、大阪の私から国際電話をするので、その打ち合わせのために訪れてくれたのだが……。

 そこで遠山記者が見たのは、どの選手もベッドに倒れ込むようにして、死んだようになっている姿だった。

 大会が始まってから11日間で6試合、2000メートルを越える高地、酸素の希薄な悪条件のなかでの強敵との対戦は続いた。準々決勝で欧州のサッカー国フランスを破るまでの勢いが、準決勝でハンガリーに打ちのめされた直後に落ち込み、それをはねかえしての地元メキシコとの銅メダルを賭けた戦い―――そのすべてを終わって、完全に燃焼し尽くしてベッドに倒れこんでいる釜本や杉山たちを見て、自分も大学時代にラグビー選手だった遠山記者は胸がつまり、寝込んでいる選手を起こす気にはなれなかったという。

 彼らを指導したFIFA技術委員のデットマル・クラマーも、この選手たちの姿を見ながら、外国人記者たちに、全力を出し切るまで戦う真のプレーヤーの姿と語ったという。

 連絡を受けて、じゃあ、彼らが起きてからにしようと、1時間ばかり、大阪の電話の前で待機した我々は、1時間半後にかかってきた現地からの連絡に笑ってしまった。

 「すみません、1時間して部屋へのぞきに行ったら、選手たちはすでに服を着替えて、町へ食事をするため出かけてしまったのです」

 国際電話は翌日に伸びてしまった。

 このエピソードは、当時のオリンピックの特派員が取材合戦のなかでも、スポーツマンシップを持っていたこと、そしてまた、サッカーの選手たちに、その勝利だけでなく日常の生活態度に敬意を払っていてくれたことがうかがわれる。それはサッカーが勝つことで、メキシコ市民の日本への親近感が強まったこと、各国記者の日本スポーツに対する評価が高まったことなどといった外側からの影響もあったろう。

 そして、疲労のためベッドにひっくり返っていた選手たちが1時間後に食事に出かけて行ったというのは、彼らの若さと、日ごろの鍛錬、そして疲労回復の早さを表わしていたと言える。

 私は、試合直後に国際電話ができなかったこと、すぐに釜本の電話インタビューで紙面を飾れなかったことよりも、イレブンたちの燃焼に感激した遠山記者の気持ちと、ひと眠りしたあと、さっさと出かけていった釜本たちのタフさがうれしかった。


(ジェイレブ MAY.1994)

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