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1968年メキシコ・オリンピック「チームワークが生んだ銅メダル」

 タフで、ここという試合に全力を出し切れるまでに成長したこのチーム、長沼健監督、岡野俊一郎コーチ以下18人の選手のうち、14人の選手と、監督、コーチが東京五輪以来のメンバーだった。選手団に入らず、相手チームの偵察を主な仕事とした平木隆三コーチも東京大会の主将だったから、4年間、主力は変わらなかったことになる。

 彼らは東京五輪の翌年、1965年から、この大会までに82の国際試合を経験した。アーセナル(イングランド)やパルメイラス(ブラジル)のようなプロもあり、来日チームだけでなく、相手の本拠地での試合もあった。ヨーロッパのすばらしいトレーニング場を借りての合宿練習もあり、レニングラードからオデッサへといった長い旅のあとの試合もあった。日本リーグの各チームからの選抜メンバーであっても、代表はひとつのチームとしてまとまり、相手に応じての戦術を考えられるようになっていた。選手たちも、自分自身でチームのなかの役割を考え、何をするかをつかむようになっていた。

 釜本邦茂というストライカーの成長については項を改めて触れなければならないが、彼の破壊力をゴール前に集中させるために、労の多い仕事をMFやDFが引き受けた。杉山隆一は、動物的とも言える鋭い得点感覚を持つ選手だったが、この大会では釜本へのパス供給者となった。羽田空港を出発する直前、空港の喫茶室で彼と宮本輝紀とお茶を飲んだが、ヒザの故障から回復し、「今度はやりますヨ」と自信あり気だった。

 このころ、彼は、自分のボールの持ち方によって、意志を釜本に伝えられるようになっていた。釜本より3歳年長で、ひと足早くスタープレーヤーとなった杉山は、華やかなストライカーの座を降りて、チーム戦術が要求するチャンスメーカー役を果たすために「釜本を使う」ことに生きがいを見出した。そしてそのため、ボールの持ち方によって、自分の意図を釜本に読みとらせるところにまで到達していた。

 わずかなチャンスに、見事なパスを通した杉山、そしてそれを受けて、次々にゴールを決めた釜本。その得点を死守したイレブンによって、アジアのチームで初めてのオリンピック・サッカーのメダル獲得が達成されたのだった。このチームはクラーマーという傑出したコーチと、その教えをうけた長沼、岡野(ともに現・日本サッカー協会副会長)の二人の、それぞれの性格を見事に組み合わせた監督、コーチのペアの成功であり、またそれを支えたJFA(日本サッカー協会)のすべて、単に東京五輪以来の4年間だけでなく、日本サッカーの75年にわたる歴史の失敗と成功の繰り返しの上に積みあげられた成果だった。


(ジェイレブ MAY.1994)

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