賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >第1回FIFAコーチング・スクール

第1回FIFAコーチング・スクール

 1969年7月15日から10月18日までの3カ月間、東京に近い千葉県検見川の東大研修センターで「アジアのための第1回FIFAコーチング・スクール」が開催された。国際サッカー連盟の主催によるこの画期的なコーチ養成は、日本のサッカーの発展の基礎となり、コーチがコーチを生み、少年サッカーの隆盛をみることになった。

 1968年秋のメキシコ五輪銅メダルを得た日本は世界のサッカー界を驚かせ、"西洋文化を何でも吸収してしまうニッポンはサッカーにもいよいよ乗り出してきた"などとも評されたが、当事者たちはひと握りのグループをひたすら強化した成果であり、日本サッカー全体の底力はまだまだ銅メダルのレベルではないことを理解していた。その底力を高めるため長期の計画が必要で、まず小・中学校の子供たちにサッカーを親しませること、そのために先生は指導ができるようにすることが大切だった。同時に高い水準のチームがリーグによって互いに競い、よい試合を見せることで普及を促進することも計画され、1965年に日本リーグがスタートした。

 活動が開始された青少年サッカー、日本リーグの両方のレベルを高くするために必要なのは、多数のよいコーチの存在だった。「リーグの各チームにも、大学にもよいコーチを配置したい。サッカーに適合したからだ全体の調和を保つには8〜12才が適当で、この年齢層にもよいコーチがいてほしい。つまり、いい指導を少年から一流チームまで行なえるようにしたい」と誰もが思っていた。

 国際サッカー連盟(FIFA)のスタンリー・ラウス会長は、サッカーの後進地域のレベルアップに熱心で、一流サッカー国の指導者を各地域へ派遣して指導する計画を持っていた。日本サッカーを銅メダルに導いたデットマル・クラマーもそうしたFIFA技術委員会のメンバーで、英語を話せることからアジア地域を担当した。彼はアジアのコーチを一ヵ所に集めて長期の研修を行ない、FIFA公認コーチの資格を与えてそれぞれの国での指導の核とし、その人たちの下でさらに多くのコーチを生み出したいと考えた。ラウス会長はこの案を受け入れ、日本サッカー協会はこの第一回のスクールの開催を引き受ける積極姿勢を見せた。

 日本では、それまでプロ野球のようなトップの人気のスポーツであっても監督やコーチといった指導者に特別の資格はなかったが、ヨーロッパではドイツをはじめ各国でコーチの資格を取得するための研修機関があり、また大学にも競技種目別のコーチ資格制度を持つところもあった。当時、スポーツ奨励に取り組んでいた東ドイツには第二次大戦前から有名だったライプチヒの体育大学があり、ここではサッカーのコーチのために8カ月の研修コースがあったし、西ドイツのケルン体育大学には7カ月のコースがあった。イングランドではトップクラブのコーチとなるための上級コーチの資格は、2週間ずつの研修を3回、合計6週間のコースを受講して得ることができた。第1回FIFAコーチング・スクールはクラーマーの言葉によると「西ドイツ、東ドイツのコース以上の内容が盛り込まれている」のだった。


(ジェイレブ JUN.1994)

↑ このページの先頭に戻る