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男たちの意地はサンフレッチェへ

 日本サッカーリーグの初期の4年間、1965年から68年まで連続優勝した東洋工業に対して、古河電工は66年にスイーパーを置く守備重点の戦術で対抗した。また66年には三菱に杉山隆一が加わり、67年からヤンマーに釜本邦茂が入って、それぞれのチームは彼らを中心に補強を進めた。

 4年目に東洋工業が優勝したときは10勝1分3敗と負け試合も増え、得点31、失点11と、得点は大幅に減少した。各チームの守備強化が進んで、多数防御、リベロ、あるいはスイーパーを置く傾向が強まっていた。

 東洋工業の速攻は、こうした厚い守りに手を焼きはしたが、東洋工業自身も守りを強化して対抗した。68年後期の対ヤンマー戦(0-0)は、釜本を小城がマークするという思い切った作戦で、二人の対決に90分間魅き入れられたことを覚えている。

 一つのチームの最盛期は、たかだか3年程度―――という。東洋工業は69年に桑田が退社して家業を継ぐことになり、歯車が少し狂い出した。

 高速が身上で、緩急の落差を利用するという面が少ないこのチームは一つのポイント、一つのタイミングで合わせるパスが多かったから、その機械の重要な部分が一つ欠けたために影響が出た。結局、69年のリーグは力をつけた三菱が初優勝した。メキシコ五輪の大舞台での殊勲者、杉山をはじめ、森、片山、横山 (GK)らが円熟味を増し、落合や大久保らが海外研修で腕をあげ、新人の細谷を大学卒業前にチームの南米遠征に同行させる積極的な強化の成果もあった。東京が物価高になったことから、選手の栄養補給の費用も考えるようになった。

 環境改善も、外国からの選手流入もなかった下村監督の東洋工業だったが、前年にタイトルを失った男の意地、松本、小城、桑原、船本(GK)たち主力選手の精神的な充実が、70年優勝奪回の大きな力となった。

 小城をリベロにして、長距離パスの発起点への相手のマークを軽減したことも成功の一つだったが、若者の多くが東京での就職とサッカーを希望する風潮のなかで、初優勝から6年間たってレギュラーの半数が抜けたチームの、地味な補強とアマチュアの限界ぎりぎりの努力の繰り返しが再び栄光をもたらした。

 東洋工業は、このあと(マツダと名を変えてからも)優勝から遠ざかってしまう。企業スポーツクラブの強化は、企業の業績そのものにも影響されることもあるからだ。
しかし、連続優勝のチームスピリットは、当時のDFであった今西和男(現・サンフレッチェ総監督)によって、紫のユニフォームの新しいプロフェッショナルに受け継がれている。

 サンフレッチェのひたむきな試合ぶりに、東洋工業の面影をダブらせるのは、私だけではあるまい。


(ジェイレブ JUL.1994)

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