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釜本の復調でヤンマー初優勝の1971年


 1968年のメキシコ五輪銅メダルのあとに訪れた日本サッカーの沈滞期―――。しかし、そのなかで、協会もリーグも選手もステップを上がろうとして努力していた。1971年のヤンマーの日本リーグ優勝は、6年間に5回優勝した東洋工業の時代から三強時代へのリーグの転換点でもあった。
 1960年代が日本サッカーの進展期とすれば、1970年代は充実期―――、日本リーグに2部を創設し、天皇杯をFAカップ方式にオープン化した。海外にも目を向け、世界を知ろうと努力し、外国からビッグチーム、スター選手の来日もあった。少年層へのサッカーの浸透は進み、ジュニアの子供たちの上達は目を見張るものがあった。

 ただし、国際タイトルという面では68年のメキシコ五輪銅メダルのような輝きはなく、メディアにとっては地味で、扱いにくい時期だった。
 その、いわば沈滞期にあって華やいでみえ、注目されたのは釜本邦茂(当時ヤンマー。現ガンバ大阪監督)。メキシコ五輪の得点王となり、国際評価を受けたこのストライカーの、力強く美しいフォームでの左右のシュートと鋭いヘディングは、彼の世界での位置づけを知らぬ人にとっても、大きな魅力だった。それはスタンドへ足を運ぶ値打ちのあるプレーであり、サッカー少年の憧れだった。私は、あるとき京都での試合の前に、競技場の周辺のグラウンドで子供たちが、オーバーヘッドのシュートでいれかわりたちかわり遊んでいるのを見たが、それは、その前の週に釜本がオーバーヘッドシュートを試合中に敢行したからだった。

 1971年の日本リーグで、その釜本のヤンマーが初優勝した。
 この年のリーグは開幕が4月4日、前期を5月23日の第7節で終わり、後期は10月17日の第8節から12月4日の第14節までで、5ヶ月近くの中休みがあった。
 これは、72年のミュンヘン五輪の予選が9月下旬にソウルで開催されたためで、そのソウル・トーナメントに備えて、日本代表の強化試合や長期の欧州遠征合宿などが続いたためだった。また前期の最中にも、第13回アジアユース大会を東京で開催したため、その期間の2週間は中断された。日本代表のスケジュール、国際ビッグイベントによって、リーグの日程が変更されるのは、興行として必ずしも得策ではないが、当時としては致しかたないところだった。
 こうした切れ切れのリーグであっても、釜本の復調と、三菱や日立とヤンマーの首位攻防は、リーグ終盤まで人気を呼び、観客数も68年メキシコ五輪の年のピークからの減少傾向を食い止め、1試合平均5500人を記録した。
 ヤンマーは前期リーグを5勝1分け1敗の首位で折り返し、後期を4勝3分け、合計9勝4分け1敗となり、三菱(7勝4分け3敗)、新日鉄(8勝2分け4敗)、日立(7勝4分3敗)などを押さえて、第13節で優勝を決めたのだった。

 リーグ創設のとき、関西から唯一の企業チームとして参加したヤンマーは歴史も浅く、初年度は7位(2勝1分け11敗)、2年目は最下位(1勝2分け11敗)だった。3年目に釜本をはじめとする大幅な新人採用が効果をあげて5位、4年目は7勝5分け2敗で2位にまで上がった。しかし、69年の第5回日本リーグでは釜本が肝炎で戦列を離れるというアクシデントがあり、復帰後も体調不充分のため活躍できず、チームは5位にとどまった。
 70年も、釜本はまだ完全回復とまでいかず、リーグの得点王にはなったが、チームは上位に入れず4位に終わった。
 71年はその釜本が完全に復調するとともに、カルロス(右FB)、ジョージ小林(MF)、ネルソン吉村大志郎(MF。当時はネルソン吉村)といったブラジル育ちの選手と、木村文治(現・フリューゲルスコーチ)、浜頭昌宏(現・ガンバ育成部)、湯口栄蔵(メキシコ五輪代表)などの日本人選手とのプレーの個性がかみ合うようになっていた。


(ジェイレブ AUG.1994)

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