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画期的だったヤンマーの日系人選手の採用

 農機具と船舶用エンジンのメーカーであるヤンマーディーゼルは、ブラジルへ進出した日系企業の中でも歴史が古く、また会社首脳が技術開発に熱心であったところから、サッカーでのブラジルの技術導入に目をつけ、ブラジル育ちの選手の受け入れを考えた。当時の日本はプロ選手はいないため、アマチュアの範囲ということで、現地の工場で採用した選手を日本での研修に呼び寄せるという形式をとった。言葉の問題もあり、まず日系人を、そして、黒人のカルロス―――と、当時としては、まさに新機軸の発想だった。

 吉村のボール扱いは、ネコがじゃれるような柔らかさで、ジョージ小林はまったく吉村と違った"骨太"なプレーをした。カルロスは、バネはあったがボールは右でしか蹴れず、ドリブルのフェイントは、右でまたぐただひとつの型しか持っていなかった。だが、右サイドから攻め上がるときのタイミング、つまり、自分がいつ、どこで、何をするかを心得ていた。

 ブラジルや南米といっても、同じように柔かく、上手とは限らない。それぞれのプレーヤーは、その素材に応じたボールの持ち方やキックがあり、それがプレーヤーの個性を作る。その個性を組み合わせることが、サッカーのチーム作りの基本―――。

 サッカーの基本的な考えは昔も今も、西も東も変わることはないが、ヤンマーのコーチ陣は、ブラジル選手を加えることで、改めてチームワークというものを理解した。

 ひとりひとりは必ずしもハイレベルではなく、欠点も弱点もある。しかし、その弱点を修正することも大切だが、その長所を伸ばし、組み合わせることがチームを有効に動かせる道―――。

 FWの右サイドの今村博冶の、決して器用ではないがタフな突進、左の三田僥(セレッソ育成部長)の、"絡み"の強さなど、それぞれプレーヤーの特色が釜本という群を抜くストライカーと結びついたところにヤンマーの優勝があった。この年の彼の得点は11、リーグ得点王としてはいささか少ない数字だが、それだけに仲間も生きてゴールを取ったことになる。勝つために守備を固め、スイーパーを置いた各チームだが、そのスイーパーが攻撃に出るようになり、戦術面でもやや進歩を見せ始めたときでもあった。日本サッカーは地味だが少しずつ前へ歩いていた。


(ジェイレブ AUG.1994)

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