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1974年西ドイツW杯「レギュラー番組にW杯が登場」
1974年はW杯の歴史の上でもエポックメーキングな大会となった。
ひとつはクライフを中心とするオランダが、守備ラインを前進させ、中盤での「数的優位」による「囲い込み」でボールを奪い、第2列、第3列のオーバーラップによる攻撃、相手のスルーパスにはオフサイドトラップとGKの前進守備という、今日のサッカーの原型ともいうべき「トータル・フットボール」を引っさげて登場し、世界のサッカーに大きな影響を与えたことだ。
第二には、1970年からカラー化と衛星中継による世界へのテレビ放映が本格的となり、それに伴って、9会場の場内看板の値段が大幅に値上がりし、マスコット、マーク、大会ロゴの商品化権利を含む、いわゆる商業主義が進んだ大会だった。
それまでの大会収入のほとんどは入場料だったのが、この大会では、テレビ・ラジオの放送権利料、看板広告収入、商品化権利などを合わせた(入場料以外の)「その他収入」が全体の46%に達したのだった。
いわば、この大会は、今のオリンピックやW杯、あるいは現在のJリーグなどのスポーツイベントが、放映権利料やスポンサー料などから大きな収益を生み出す手本となったといえる。
テレビ東京は、そのころ、すでにサッカーのレギュラー番組を持っていた。
1968年の4月から始めた「ダイヤモンド・サッカー」で、初めのうちはBBC(英国放送協会)製作の試合番組を買いつけて、毎週一回「ダイヤモンド・サッカー」として放映していた。
そして、1970年のW杯のときに、大会の全試合の放映権を買った。このときは衛星中継にはいたらず、8月の終わりごろに32試合のテープ全部が届いたので、10月の第1週の「ダイヤモンド・サッカー」で、あのブラジル対イタリアを放送したのを手始めに、次々にテレビ画面にW杯の各試合を登場させた。録画放送ではあったが、世界のトップの試合は、日本のサッカー人に新しい目を開き、金子アナウンサーと岡野(俊一郎)協会技術委員の解説というコンビは、多くのスポーツ人の共感を得ていた。
こうした実績を足場に、テレビ東京は1974年W杯の放映権獲得に乗り出した。
当時の担当者、寺尾皖次ディレクターによると、衛星中継のナマ放送は決勝の1試合だけにしぼり、他の試合は、そのあと1年半かけて「ダイヤモンド・サッカー」の番組にまわすことにし、ほとんど1年がかりの交渉で70万マルク(8500万円)で権利を得たという。
(ジェイレブ OCT.1994)