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10年目の日本リーグで前人未到の記録の誕生

 東京オリンピックの翌年、1965年にスタートした日本サッカーリーグは、わが国のサッカーを27年間リードして、Jリーグにバトンを渡したが、その発足から10年目の1974年、釜本邦茂選手が通算100得点を達成した。いささか低迷期にあった20年前、10月20日は数少ない"華やぎ"の日となった。

 10年目の日本リーグは1974年(昭和49年)4月7日に開幕、前期(第9節まで)を6月2日に終わり、4ヵ月の中断期を経て10月10日から後期(第10節以降)をスタート、12月8日に18節を終わる予定だった。

 中断期を長くとったのは日本代表チームの参加する第7回アジア競技大会(イラン)が9月上、中旬に行なわれたため。代表チームの欧州転戦や、来日外国チームとの対戦なども6、7、8月に盛りだくさんに組まれていた。

 1965年に8チームでスタートしたリーグも、72年には2部(10チーム)が発足し、73年からは1、2部それぞれ10チームとなり、初期の東洋工業時代から、ヤンマー(現・セレッソ)三菱重工(現・浦和レッズ)日立本社(現・柏レイソル)の三強時代に入っていた。

 この年、1944年(昭和19年)4月15日生まれの釜本邦茂は30歳。6年前にメキシコ五輪の得点王という国際舞台での頂点に立った彼は、69年の6月にビールス性肝炎となって入院した。3ヵ月の休養ののち、プレーを再開、薬をバッグにしのばせ、試合の翌日は医師の検査を受けるという慎重な"馴らし運転"―――ベストの状態に戻るには年月が必要だった。

 とはいっても、ゴール前でのスペシャリストの釜本は、得点を重ねて、73年のリーグ終了時点では通算得点を85としていた。病気回復の方にぼつぼつ自信を持ちはじめた72年、マレーシアのムルデカ大会では得点王となり、アジアに再び"カマモト"をアピール。73年は足の故障が日本代表にも、ヤンマーにも響いたが、74年のシーズンは故障なしでスタートできた。そして前期リーグ9試合で10得点して、通算ゴール数を95(107試合)に伸ばしていた。
 後期リーグの第1戦でヤンマーはトヨタに5-0で圧勝した。釜本はFKで先制のゴール、ドリブル突破での2点目、右の今村からのパスを決めて3点目(チーム4点目)を奪った。ハットトリックは、このシーズンでは6月2日の対古河戦(8-2、釜本は4点)に続く2度目、通算では7回目だった。

 「はじめは後期の中ごろと思っていたのが、急に近づいてきた」と本人は言っていた。その第2戦の相手は三菱重工。前年のチャンピオンであり、ところは国立競技場。まずは申し分のない舞台だった。

 10月20日、集まった1万5000人のファンは前半1-1のあと、後半開始早々に釜本の鋭いヘディングシュートがゴールネットに突きささるのを見た。

 左サイドの堀井が低いライナーで送ったクロスを、相手DFの前、ニアサイドへ走り抜けるようにしたヘディングだった。

 2点目は、その5分後、吉村がDFと競り合いながら正面でやや左へ送ったロブのボール。その落下点へ一番早く到達したのが釜本だった。大谷のタックルより一瞬早く、彼は左のツマ先で突つくようにして蹴り、ボールはゴール左下隅へ転がりこんだ。3-1でヤンマーは勝ち、日本リーグで、誰もがまだ達していなかった100ゴールが生まれた。


(ジェイレブ NOV.1994)

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