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1950年ブラジルW杯「マラカンナの悲劇」

 1938年のフランス大会で大きな盛り上がりを見せたワールドカップは、第2次対戦のために中断する。戦乱に苦しむヨーロッパから遠く離れた南米ブラジルでは、輸出が経済の好況を生み、国内サッカーもまた充実する。そして1945年の大戦終結から5年を経て、FIFAは第4回ジュール・リメ杯世界選手権(ワールドカップ)の開催国にブラジルを選ぶ。
 リオに20万人収容のマラカナ・スタジアムが建設されて、大会の“目玉”となった。 
 大会開幕ぎりぎりに完成したスタジアムの周辺には、開会式当日も建設資材が積み上げられていたが、その巨大な円形の外観は異形を放ち、世界にブラジルという国を改めて認識させた。リオとともにサンパウロ、クリチーバ、ポルトアレグロ、ベロオリゾンテ、レシフェが会場となった。
 大会の予選エントリーは32か国、地域の代表はヨーロッパが8(前回優勝イタリアを含む)、南米5(開催国ブラジルを含む)、中北米2、アジア1だったが、大会前に棄権があり、13か国で行われた。
 1次リーグ1組のブラジルは、メキシコ(4-0)、ユーゴ(2-0)に完勝し、スイスのディフェンス策には2-2で引き分けたが、2勝1分けでこの組の首位となって決勝リーグへ進んだ。第2組はチリが1位となったが、サッカーの本家ともいうべきイングランドが初めてのワールドカップ出場で、チリ(2-0)に勝ったあとアメリカ(0-1)に敗れるという大番狂わせがあり、スペインにも負けてしまった(0-1)。
 第3組からスウェーデン、第4組はウルグアイが首位となったが、第4組は2チームだけ。相手はボリビア(8-0)で、ウルグアイにとっては決勝リーグへの力を温存できた。
 決勝リーグに入るとブラジルは勢いを増し、スウェーデンを7-1、スペインを6-1と圧倒した。コスタ監督は、FWのジャイール、アデミール、ジジーニョの3人を自由にプレーさせ、彼らの奔放な動きは相手の守りを寸断した。
 決勝リーグの最後の相手ウルグアイは、スペインと2-2、スウェーデンには3-2と1勝1分け。苦しい内容の試合が続いた。ブラジルにとっては引き分けでも優勝となる有利さ。ブックメーカーの賭け率は10-1。国民の全ては優勝を信じていた。
 7月16日、199,850人の大観衆を集めたマラカナ競技場での決勝はー期待の重圧のためか選手の動きが鈍く、攻め続けながらウルグアイの守りを破れない。後半開始早々に、ようやく左からのクロスを右サイドのフリアサが決め手1-0。しかし、ここからウルグアイが攻撃に転じると、ブラジルの守備が乱れ、あと20分というところで2点を奪われてしまった。スタジアムで60人が心臓発作を起こし、リオの街では自殺する者が相次いだ。

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