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1試合1得点ペースでの通算100ゴール

 前期を2位で折り返したヤンマーは、後期を6勝2分1敗で走り、このシーズンを10勝5分3敗、勝点25で、三菱重工(11勝3分4敗)と同点ながら、得点47、失点24(得失点差23)で三菱(得点37、失点18、得失点差19)を押さえて2度目の優勝を遂げた。

 釜本の復活(シーズン21得点)による攻撃力の差でつかんだタイトルといえた。

 8チーム、あるいは10チームのホームアンドアウェーは、シーズンに14、あるいは18試合で、海外のトップリーグの半分。試合数からゆけば今のJリーグの第1ステージにも及ばないが、このころの日本代表の試合は20試合平均あって代表選手たちはリーグ、天皇杯など年間に40試合以上を戦っていた。

 そうしたなかで109試合100得点、1試合にほぼ1ゴール、正確には1試合平均0.92点のペースでゴールを重ねたのは、驚くべき能力だったといえる。特に、本来なら、体力とスピード、それに技術と経験が調和してくる25歳〜28、29歳の間は、肝炎という障害と戦いながらのプレーであったことを思えば。そのゴールへの執念、得点することへの意欲の高さに、あらためて頭を下げることになる。

 釜本のこの年の得点ペースが高まり、次の年、また、その次の年もリーグ得点王を獲得し続けたのは、右の今村、左の堀井といった外側からの攻め手、あるいは吉村やジョージ小林らのMFあるいは後方からのパスの供給、もう一人のストライカー阿部(洋)の成長など周囲のレベルアップがあるのだが、彼自身にとっては、夏の欧州転戦中にドイツで74年W杯を観戦し、クライフのオランダやベッケンバウアーの西ドイツを注視し、ゲルト・ミュラーのゴールを見つめたことが大きな刺激となった。「66年、まだ若いときにイングランドで見たW杯とは別に、西ドイツ大会では、まず最初に、自分はもう、こういう大会でプレーするチャンスはないだろうと、ちょっと淋しかった」とは、いかにも彼らしいが、その淋しさのなかでゲルト・ミュラーの得点への強い意志をくみとり、クライフの落差の大きい緩と急などを見てとったのが、30歳になってからの推進力のひとつとなった。

 Jリーグで今、世界的な選手のプレーが見られるなかで、カマモトのようなストライカーが加わっておれば、どれほど多くのファンを楽しませることになるのか―――。

 彼はさらに17年のキャリアで202ゴールを決めるが、日本サッカーリーグで、彼以外に100ゴールを超えた者はいない。


(ジェイレブ NOV.1994)

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