賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >甲子園球場、西宮球技場での高校選手権

甲子園球場、西宮球技場での高校選手権

 大正7年(1918年)1月12日と13日に開催された第1回日本フートボール大会から8年後、大会は全国8地区の予選制度をとり、全国大会としての形を整え、名称も「全国中等学校選手権大会」と改めた。

 主催者の大阪毎日新聞社のバックアップと経済的に余裕のあった関西のサッカー人の熱意は、短い期間に大会の内容を濃くした。

 会場は1回から5回まで豊中、6、7回が宝塚、8回から10回までは甲子園球場―――このころ毎日新聞はサッカーとラグビーを併行して冬に開催していた。それが野球場で行なわれたのは、大正13年につくられた巨大なスタジアムが、野球だけでなく、外野の芝生でラグビーもサッカーも行なえる広さを取るという構想、いわば総合球技場の考え方だった(戦後のプロ野球でホームランを増やすため、外野を狭くしてフェンスを設けた)。

 東京の高等師範付属中学のOB、藤岡端さんは、甲子園球場でボールを蹴った感想を「砂利だらけの練習場、手のひらとヒザ頭には小砂利がめりこんでいるのを当然と心得ていた我々には、外野側のゴール前で選手にまじってキックしたとき、芝生上に浮き気味のボールがどんなに蹴りよかったか。我ながら上達したような気がしたのを忘れられない」(高校サッカー40年史より)と記している。

 甲子園球場をつくった阪神電鉄は昭和4年に同じ甲子園の海辺近くに陸上競技場兼用のサッカー、ラグビー場を建設した。そのころ東京にすでに出来ていた明治神宮競技場が、一周400メートルのトラックで、ボールゲームの併用にはきゅうくつだったことから、トラックは500メートルとした。スタンドは収容2万人。まことに立派な競技場で、全国中等学校蹴球選手権大会は、ここを本拠地として昭和15年までの戦前の盛期を迎えた。

 甲子園南運動場と呼ばれたこの競技場は国際試合などの会場となったが、昭和18年(1943年)海軍が接収した(近くに航空機生産工場があり、防空壕に転用した)ため、大戦が終わったあとも米軍の車輌倉庫となって、短命のうちに消えてしまう。

 メッカを失った大会は、復活した第26回大会(昭和22年12月下旬)の会場を阪急電鉄の経営する西宮球技場とした。野球場の南側に作られたこの球技場は、芝生のピッチが良好で、その外に3面の土のフィールドがあった。

 学制改革で高校選手権大会と名は改まってからも、しばらく西宮での開催が続いた。

 大戦後の最初の優勝チーム、広島高等師範付属中学にいまの日本サッカー協会・長沼健会長。東京都立五中にはIOCの岡野俊一郎委員がいた。第33回大会(昭和30年)ベスト8、三国丘(大阪)にはJリーグの川淵三郎チェアマンの名があった。34年の37回大会準優勝の広島大学付属高に小城得達(おぎ・ありたつ)、40回大会決勝の修道(広島)対山城(京都)戦には、前者に森孝慈、後者に釜本邦茂、41回優勝の藤枝東に山口芳忠ら、メキシコ五輪銀メダル組の若い姿がみられた。

 優秀選手が輩出し、好ゲームが展開されても、会場そのものがよくなければ、観客へのアピール度は低い。近鉄の花園ラグビー場は秩父宮さまのお声がかりで生まれただけに英国のトウイッケナムなどを参考にし、スケールは小さくてもそれなりの格があったけれど、土盛りスタンドの西宮球技場は戦後も15年たてば貧弱に見えた。

 ところが、スタンドの改装どころか、西宮球技場は、すぐ横を通る名神高速道路建設のため、3年間使用不可能となり、大会会場をしばらく大阪に移さなければならなかった。

 再び西宮に戻った第46回は50年間、主催であった毎日新聞が手を引き、また全国総体が昭和41年夏から始まったため、大会の規模を縮小し、本大会出場は前年の32から半分の16にした。


(ジェイレブ JAN.1995)

↑ このページの先頭に戻る