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高校選手権が関西開催にサヨナラを告げた1976年1月8日

 毎日新聞が退いたあとへ、テレビ局という新しいメディアが後援に入ったのが49回、西宮での最後の大会。藤枝東が4度目の制覇を遂げたとき、日本テレビが日本蹴球協会と放映権契約を結んだ。

 次の年から主会場を大阪の長居競技場に移し、テレビも全国38社が連合して予選の段階から放映することになり、本大会出場チームも24と8チーム増やした。テレビの関係者の才覚と努力で長居競技場に人が集まるようになった。

 52回(昭和49年1月)大会決勝の北陽対藤枝東(2-1)、53回の帝京対清水東(3-1)は、「まさに青春」そのものの白熱した試合も共感を呼んだ。

 次の年、浦和南と静岡工の決勝は田嶋幸三(現・協会技術委員)の2ゴールで決まり、九州の島原商、大分工、福岡商がベスト8に残って活躍となった。その島原商とのPK戦に勝った広島工には金田喜稔(テレビ解説者)がいた。

 長居での定着は成功に見えた。

 首都圏への移転の計画が表面に出たのは昭和49年ごろから。東京オリンピック以後、関西と大きな格差をつけたのはサッカーの人気だけでなく経済力も―――。スポンサーの確保しやすい首都圏へ移ることは、大会全体の利益、サッカー界全体のプラスになるとみて、まず高体連の合意をとりつけ、昭和50年5月の日本サッカー協会理事会で承認され、12月のこの大会組み合わせ発表の席上で公表された。

 朝日新聞が大正4年に初めて開催した「一ヵ所にチームを集めてノックアウトシステムで優勝を争う」という世界に例のない高校野球―――それにはりあえる大会をと毎日新聞が大正7年に開催した高校サッカーは60年を経て日本テレビが受け継ぎ、"国立での決勝"を掲げて、日本独特のビッグイベントへのステップを踏み出したのだった。


(ジェイレブ JAN.1995)

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