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1979年ワールドユース「世界大会を日本で開催」

 1977年のチュニジア大会を第1回とするワールドユースは、アベランジェ会長が74年のFIFA総会で立候補したときの公約のひとつ。後進地域のレベルアップのためのFIFAアカデミー開設とともに推進に力を入れた。2年に1度の大会の参加は、欧州(6)、南米(3)、アフリカ(2)、アジア(2)、中北米(2)の合計15カ国に開催国を加えた16チーム。FIFAでは第3回大会からチャンピオンシップ(選手権大会)として第2回まではワールド・ユース・トーナメントといっていたが、実質、世界一を争う大会には違いなかった。

 この世代の世界選手権を開催するということは、そのスポーツ発展の刺激になる。ただし、財政面の不安があり、どのスポーツでも手をつけていなかったが、FIFAはコカコーラをメインにした企業のバックアップによってこの点の解消を図り、コカコーラ杯と名づけた。いわゆる冠スポンサー。公式の世界大会では、初めてだった。

 日本サッカー協会は77年の第1回大会のときに第2回大会の立候補をし、その準備にかかった。会場は東京(国立)、神戸(中央)、大宮(県営)、横浜(三ッ沢)の4都市4競技場で、試合方法は4チームずつの4組に分け、各組リーグの上位2チームが準々決勝に進み、準決勝、決勝へと登ってゆく、オリンピックと同じ方式だった。

 この大会の開催国に名乗りをあげたのには、企業のバックアップによる冠大会に熱意を燃やす大手広告代理店"電通"の強力なサポートがあった。スポーツイベント戦略に自信を持ち、1977年の高校サッカーの首都圏移転にも尽力した同社には、ユース開催は"世界"への大きな一歩でもあった。

 もちろん、日本サッカー協会には若手層への普及と強化、施設の整備のチャンスでもあった。
 すでにアジアでは1959年から毎年、アジアユース大会が行なわれ、1977年までに19回を重ねていた。日本では東京オリンピックの翌年(1965年)の第7回大会、1971年の第13回大会と2度、東京で開催しているが、19年間にまだ一度も優勝したことはなく、第15回の2位、第1、2回の3位と、銀や銅メダルだけで、71年の東京大会も準決勝で韓国とのPK戦に敗れてベスト4に止まっていた。

 そのころすでに高校選手権大会の参加チームが3000に達するという世界でも稀にみる組織化された若手層を持ちながらのことだったが、毎年、開催のこの大会とは別の、2年ごとのワールドユース、しかも予選なしの出場の利点を生かして、チーム強化に時間をかけられる、したがって成果も期待できる―――と日本協会は考えたようだ。

 それは1964年の東京オリンピックの際に、予選なしの開催国の恩典を生かして4年がかりで代表チームを強化したのと同じ発想だが、いかに伸び盛りの年齢でも、2年間で欧州や南米のプロの"現役"や"タマゴ"に追いつくことは(当時のレベルでは)難しかった。


(ジェイレブ FEB.1995)

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