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1979年ワールドユース「19歳のマラドーナに驚き、世界のレベルを知った」



1979 FIFAワールドユース選手権準決勝、対ウルグアイでアルゼンチン代表マラドーナが着用したユニフォーム
(写真提供:マラドーナコレクションジャパン)

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 松本育夫監督のもとに78年3月から79年5月まで13次、のべ358日に及ぶ合宿や欧州遠征などを行なったが、2年間の短さを痛感したのは、おそらく松本監督だったろう。
 1次リーグが8月25日から8月30日まで行なわれたが、東京・国立競技場でのA組の日本は、第1戦の対スペインを0-1で敗れ、ついでアルジェリアには0-0、メキシコには1-1で引き分け、3戦2分1敗、得点1、失点2の最下位に終わった。
 他の3チームも、それほど高いレベルではなかったが、日本人選手はスピードはあっても、ボールがうまくわたらず、がんばりは目立っても得点力に乏しかった。

 東京オリンピック以来15年に及ぶ少年層への浸透も、結局、U-20の世界では1勝もできないままに終わったが、それでもこの大会には大きなプラスが加わった。

 その第一は、国立競技場で観衆がユース代表に熱狂的な応援をし、日の丸を振ったこと。日本代表チームへのサポートは、「日本サッカー狂会」という、池原謙一郎、鈴木良昭、後藤健生らのグループが、彼ら独特の"ニッポン、チャッ、チャッ、チャッ"というリズミカルな手拍子と声援をはじめ、それが、ユースという若いプレーヤーたちと同世代のファンの共感を得たのだろう。対メキシコ戦でのバックスタンドの風景は、それまでの日本のスポーツ界には見られなかったもの。今日のJリーグのサポーターの原型はこのときといってよい。

 第二はマラドーナというスーパースターの伸び盛りを、多くのサッカー人が自分の目で見たこと。彼のトラッピング、シュート、身のこなし、パスの受け渡しの判断―――彼の仲間ディアスのシュートも。そして、アルゼンチンの隣国、パラグアイのロメロもまた神戸の人気者となった。

 第三は運営―――東京オリンピック以来、スポーツ大会の運営には定評のあった日本だが、"官製"でない民営大会には、まだまだ力のないことを自ら知ったこと。

 第四は、一丸となって2年間精進した代表選手たちのなかから次代を担うプレーヤーが残ってくれたことだ。選手のリストを見れば、読者はいまのJリーグーでプレーしている選手や、指導者や解説者の名を見出すだろう。

 この大会から15年後の94年9月、ジャカルタでの第29回アジアユースで2位となった日本代表は、95年3月の第8回ワールドユース(ナイジェリア)に日本代表として出場する。尾崎や水沼たちの経験の上に新たな歴史を築いてほしい。


(ジェイレブ FEB.1995)

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