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ミラ?ミラー?ミュラー?

アルベルト・ロージャー・ムー・ミラー(ALBERT ROGER MOOH MILLER)。1952年5月20日、鉄道従業員の家に生まれたミラが初めにつけられた名前は、MILLERだった。いやMULLERだったともいう。名前から見ればドイツ的だが、もともとカメルーンは第一次大戦以前はドイツの保護領。植民地であったから、MULLERであってもおかしくないが、いつのころからかMILLAで通るようになってしまった。

 カメルーンの小さな田舎町マカークで紙をまるめ、ヒモでくくったポールを蹴り始め、10歳のときに父親らとともにヌコングサンバへ移った。少し詳しい地図ならドウアラ市のすぐ北に名前を見つけられる程度の町だ。1年後、こんどはドウアラ市へ。ギニア湾に面した人口45万の港湾都市。ミラは18歳でプロフェショナルとなり、レオパード・ドウアラのFWを務める。

 彼の得点力で1972年にクラブは国内チャンピオンとなり、アフリカ・チャンピオンズ・カップの準決勝まで進む。しかし、意欲に燃えるミラは優勝できるチームを求め、次の年にカメルーンの名門クラブ『トネーレ・ヤウンデ』と契約した。

 のちに代表チームの盟友となるGKトーマス・ヌコノのゴールを破ってカップ優勝するのもこのころの話。そのヌコノもこのクラブに加わり、二人は力を合わせてアフリカ・カップ・ウィナーズ・カップの優勝を勝ち取る(1975年)。

 こんなストライカーを、かつての宗主国フランスのサッカー関係者が見逃すはずはない。最初にバレンシェンヌス、ついでモナコ、そしてコルシカのバスティアとミラは働き場所を移す。バスティアでは1981年にフランス・カップの制覇に尽くした。決勝でプラティニのサンテティエンヌと戦い、1ゴールを挙げたのも、彼には大切な記録の一つだ。1982年のスペイン・ワールドカップでは、彼は新たな経験を積み、また世界のプロフェッショナルにカメルーンのミラの名を印象づけた。

 2年後の1984年には、カメルーン代表をアフリカ選手権のチャンピオンに押し上げた。一方、働くクラブはそのあとサンテティエンヌ、モンペリエと変わり、最後にはアフリカ東海岸のマダガスカル島に近い(といっても東方650`のインド洋上)、レユーニオン島サンピエール町の、ジュネース・サンピエールクラブへ移っていった。

 彼の非凡な得点力を知りながらも、まるで使い捨ての部品のように思っていたのかもしれない。

 代表チームから2年前に引退したミラを90年イタリア大会に参加させたのは、彼の古くからの友人だったポウル・ビヤ(PAUL・BIYA)の個人的な勧めだった。

 その彼の、後半からの起用が成功して、大舞台での得点となった。ミラ自身によると、「プロとなって以来、20年間に1000ゴール以上決めているが、記録として集計できないでいる」という。もしそうなら、ワールドカップでコロンビアのイギータからもぎとったゴールは、1000何点目になるのだろうか。もちろんカメルーンのベスト8は、ミラだけの功績ではない。リベロで長身のクンデ、右サイドのタタウ、タックルの鋭いエベレ、中央のオナナやヌディプ、中盤のムブー、ムフェデ、忘れられないマカナキー、さらには開幕ゴールのオマン・ビイク、走り回るカナ・ビイク……彼らの努力の集結が、大ベテランのゴール感覚を生かした。

 こうしたカメルーン代表の好成績に、FIFAもついにワールドカップ本大会でのアフリカという地域を代表するチーム数を、現行の2から3に拡大することを決めた。

 北緯37度20分から南緯34度32分、東経51度23分から西経17度33分に至る、広大な地域に50以上の国と5億の人が住むアフリカ大陸が、ワールドカップで自らの実力で築いた地位は、これからも拡大し続けるだろう。

(サッカーダイジェスト1991年6月号より)

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