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エビ=カマローネス=カメルーン

 面積3000万平方キロ、日本の80倍もあるアフリカ大陸。北部のサハラ沙漠だけで、日本の25倍という。その広さの実感はつかめない。

 そのアフリカ大陸中央部の西側、つまり大西洋側、ギニア湾に臨むカメルーン共和国は、15世紀にポルトガル人ウェルナンド・ポーが訪れたときに、入江にエビが群棲していたところからリオ・ダス・カマローネス(エビの川)と名付け、その海岸地方をもカマローネス(エビ)と称したのが国の名の起源という。

 西はナイジェリアとギニア湾、北はチャド、スーダン、東は中央アフリカ、南コンゴとガボン、それに赤道ギニアなどに囲まれ、日本の1.3倍の国土と1千万人余の人口を持つこの国は、ココア、コーヒー、綿花などを産出する農業が基調。石油も産出して、中部アフリカでは政情、経済とも安定している。南隣のガボンのランバレーネは“密林の聖者”故アルベルト・シュバイツァー博士の病院のあるところだ。

 この地へのサッカー伝来は、第一次大戦の前、ドイツがカメルーン一帯を植民地化しようと計略していたころだった。ヨーロッパの列強の、アフリカでの勢力争いは、第一次大戦とともに大きく変動し、カメルーンもまた英領とフランス領とに分かれる。そして、フランス領では海外領地のサッカーを、フランス本国のサッカー組織に組み入れるようになっていた。

 しかし、なんといってもカメルーンのサッカーがほんとうに人々に浸透するようになったのは第二次大戦後。独立意識が高まり、かつての植民地が新しい独立国家に生まれ変わり、自由を手にするようになれば、まずスポーツ。平和を得るようになれば、まずスポーツだった。

 そうした空気のなかで、1957年にエジプトの提唱で、まずアフリカ・サッカー連合の設立とアフリカ選手権(ネーションズ・カップ)創設が計画された。

 もともとエジプトは、アフリカ大陸では古くからサッカーの盛んなところ。カイロ在住の英国人が1895年にプレーをしたのが根を下ろすことになったという。もっとも、アフリカで一番早くサッカーが行なわれたのは南端の南アフリカ。1860年ごろに英国人移住者が始めたという。今日では南アフリカは、ラグビーが有名だが、これは人権差別政策の影響で、黒人の好むサッカーより、白人社会がラグビーに傾いていったこともある。実際、今度のアパルトヘイト撤廃によって南アフリカからサッカー・タレントが続々と現われるものと期待する人も多いのだ。

 それは別として、南アフリカに30年、黄金海岸には15年と、サッカーの伝播の遅かったエジプトだが、1916年にはもう『サルタン・カップ(王様杯)』といった大会が開催され、1920年のアントワープ・オリンピックにはチームを送るなど、国際舞台へのスタートは早かった。

 そのエジプトの提案によるアフリカ・サッカー選手権は、まず4か国が参加(エジプト、スーダン、エチオピア、南アフリカ)して始まった(人種差別の問題で南アフリカは出場できず)。以来31年、一昨年の第16回大会は参加が41か国、地域予選を突破して8か国出場の決勝大会への道のりは、5倍の競争率となっている。

 そしてまた、各国のチャンピオンがアフリカ1を争うアフリカ・チャンピオンズ・カップと、各国のカップ優勝チームが争うカップ・ウィナーズ・カップがそれぞれ1964年、1975年に創設され、現在はチャンピオンズ・カップが38か国、カップ・ウィナーズ・カップは33か国のチームが参加している。これら三つのカップ戦は、参加が増えただけではなく技術レベルも向上しているが、そのなかでカメルーンは、アフリカ選手権に二度(1984年、1988年)優勝し、チャンピオンズ・カップには5回優勝、カップ・ウィナーズ・カップで3回優勝を記録。伝統あるエジプトやナイジェリア、ガーナ、アルジェリア、モロッコなどと並ぶアフリカ大陸でのサッカー王国となった。

(サッカーダイジェスト1991年6月号より)

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